ナッソー襲撃 (1703年)
ウィキペディアから
ウィキペディアから
ナッソー襲撃(ナッソーしゅうげき、英語: Raid on Nassau)はスペイン継承戦争中の1703年10月に行われた、フランスとスペインの私人によるニュープロビデンス島への襲撃。襲撃はフランスとスペインの勝利に終わり、ナッソーが短期間占領された後に破壊された[1][2]。ブラス・モレノ・デ・モンドラゴンとクロード・ル・シェネー率いるこの襲撃は英領バハマの首都ナッソーへの攻撃に集中、その占領はすぐに成功した[3]。ナッソーは略奪された後、火が放たれた[2][3][4]。ナッソーの要塞は解体され、イングランドのナッソー総督とイングランド兵は全員捕虜になった[1]。翌年に就任した総督サー・エドワード・バーチ(Edward Birch)はほぼ廃墟と化したナッソーに取り乱し、数か月後に「委任状を開けることなく」帰国した[2][5]。
ナッソー襲撃 | |
---|---|
ニュープロビデンス島周辺の地図、1803年作。 | |
戦争:スペイン継承戦争 | |
年月日:1703年10月 | |
場所:ニュープロビデンス島 | |
結果:フランスとスペインの勝利 | |
交戦勢力 | |
フランス王国 スペイン王国 |
イングランド王国 |
指導者・指揮官 | |
ブラス・モレノ・デ・モンドラゴン(Blas Moreno de Mondragón) クロード・ル・シェネー(Claude Le Chesnaye) |
エリス・ライトウッド(Ellis Lightwood)(捕虜) |
戦力 | |
フリゲート2隻 300-400人 |
300人 |
損害 | |
平民100人 | |
| |
サンティアーゴ・デ・クーバとサン=ドマング植民地の首脳部はナッソーを目の上のたん瘤と見なし、1703年10月にスペイン兵士とフランスのバッカニアをフリゲート2隻に乗せてナッソーへ派遣した[1]。彼らはナッソーで100人以上を殺害、80から100人を捕虜にし、大砲22門を鹵獲、要塞を破壊した後、捕虜と拿捕した船13隻を戦利品としてサンティアーゴ・デ・クーバへ連れて戻った[2]。捕虜にはナッソー総督のエリス・ライトウッドも含まれた[1][2]。
イングランド人住民は危険が去るまで森に隠れたが、いざ戻ると島全体が廃墟と化したため、ほかの集落へ移住した。イングランドはニュープロビデンス島での出来事を顧みず、襲撃について全く知らなかった。ナッソー総督の後任としてエドワード・バーチが任命されたが、彼がナッソーに到着したときにはそれが放棄された後であったため、彼は委任状を開けることなく帰国せざるを得なかった[5]。
襲撃は1706年に再度行われ、その結果としてニュープロビデンス島に残ったのは間に合わせの家に住む27世帯のみとなった。500人に満たない住民はその後も襲撃に悩まされ、貿易も減少、イングランドからの後任の総督やほかの援助もなかった。バーチは住民が「裸を遮蔽する服」もないのを見ると、委任状も開けずに去った[4][6]。
1686年にバハマに着て植民地政府に就職したジョン・グレイブズ(John Graves)は1706年にニュープロビデンス島の残り少ない生還者が「小さな家に住み、襲撃されたら森で身を守る」と記述した[4]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.