テト攻勢(てとこうせい、ベトナム語: Sự kiện Tết Mậu Thân、英語: Tet Offensive)は、ベトナム戦争中の1968年1月にベトナム民主共和国(北ベトナム)と南ベトナム解放民族戦線(解放戦線)によって行われたベトナム共和国(南ベトナム)やアメリカ合衆国(アメリカ)等に対する奇襲攻撃である。テトとはベトナムの旧正月の事であり、戦争中には祝日には短期間停戦する事となっており同年もテトの期間中は停戦が行われていたが、その最中の1月30日未明にこの攻勢がかけられた。なお停戦期間中であったため南北双方で休戦協定違反であると非難合戦が行われたが、南ベトナム側は一部地域で停戦を取り消していたためどちらが先に協定を破ったかの決着はつけがたかった[1]。
概要 テト攻勢, 交戦勢力 ...
テト攻勢 |
![](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/40/ARVN_Rangers_defend_Saigon%2C_Tet_Offensive.jpg/300px-ARVN_Rangers_defend_Saigon%2C_Tet_Offensive.jpg) 首都サイゴンを防衛する南ベトナム軍 |
戦争:ベトナム戦争[1] |
年月日:1968年1月30日 - 同年2月12日[1] |
場所:南ベトナム全土、主要都市[1]。 |
結果:南ベトナム側が防衛に成功するも、大打撃を受ける[1]。 |
交戦勢力 |
ベトナム民主共和国
南ベトナム解放民族戦線 |
ベトナム共和国
アメリカ合衆国
大韓民国
オーストラリア
ニュージーランド
タイ |
指導者・指揮官 |
レ・ズアン
レ・ドゥク・ト
ヴァン・ティエン・ズン
ホアン・ヴァン・タイ
チャン・ヴァン・チャ
グエン・ヴァン・レム ![処刑](//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/06/Skull_and_Crossbones.svg/14px-Skull_and_Crossbones.svg.png) |
グエン・バン・チュー
グエン・カオ・キ
カオ・ヴァン・ビエン(英語版)
リンドン・ジョンソン
ウィリアム・ウェストモーランド |
戦力 |
1967年末時点 解放戦線262,000人 テト攻勢時 解放戦線300,000人 ケサン 北越軍15,000人-20,000人 |
1967年末時点 南越軍643,000人 米軍486,000人 同盟国軍59,000人 テト攻勢時 米軍側1,200,000人 ケサン 米軍6,000人 戦闘機出撃24,000回 爆弾35,000トン投下 B52出撃3,602回 爆弾75,000トン投下 |
損害 |
32,000人戦死 5,800人捕虜 掃討作戦含む 37,000人戦死 フエ 市内5,000人戦死 郊外3,000人戦死 |
南越軍等2,082人戦死 米軍1,001人戦死 フエ 南越軍384人戦死 米軍142人戦死 |
- ベトナム戦争
-
リスト
- 南ベトナム内における浸透戦
南ベトナムにおける初期浸透ゲリラ戦
外国軍の介入
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外国軍撤退後の戦い
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航空戦
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この戦いでベトナム人民軍(北ベトナム軍)と解放戦線は南ベトナム全土で攻勢を開始し、同国の主要都市を一斉攻撃すると共にケサンのアメリカ軍基地を攻撃し、都市攻撃と基地攻撃の複合戦で南ベトナムやアメリカを揺さぶった。この攻撃で同年2月12日までに全省都44の内34省都が攻撃を受けた。そして首都サイゴンのアメリカ大使館は解放戦線のゲリラによって一時的に占拠され、古都フエ市は一時占領された。その時解放戦線は都市住民が蜂起する事を期待したが、それは叶わなかった。そしてその結果ベトナム共和国軍(南ベトナム軍)やアメリカ軍は一応防衛には成功したものの大打撃を受けた。またこの戦いでは南ベトナム・アメリカ側の犠牲は甚大であったが、もう一方の北ベトナム・解放戦線側の犠牲も甚大であった。だが結果的に索敵撃滅・農村平定というアメリカの戦略は崩壊した。そのためアメリカでは同年3月31日に大統領リンドン・ジョンソンが次期大統領選不出馬を表明するとともに北爆を停止。和平交渉による戦争終結を目指すようになった。そのような意味で、この戦いはベトナム戦争の流れを大きく変える軍事行動であった[1]。