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ティボー1世(フランス語:Thibaud Ier, 913年 - 975年)は、初代ブロワ子爵およびトゥール子爵。のちブロワ伯、シャルトル伯、シャトーダン伯およびトゥール伯(在位:956年 - 975年)。詐欺師(le Tricheur)のあだ名でよばれる。
ティボー1世はティボー・ランシェンと出自・名前不明の初婚の妻との息子として913年に生まれた。
父ティボーは908年からトゥール子爵となっていた[1]。また、父ティボーの妻・リシルドはメーヌ伯ロルゴ1世の曾孫にあたる[2]。
ティボー1世ははじめフランス公ユーグ大公の家臣であった[3]。945年ごろ、西フランク王ルイ4世がスカンディナヴィア人に捕まり、ユーグ大公に引き渡され、ユーグ大公はルイ4世をティボー1世のもとで監禁した[3]。
約1年後、ルイ4世はユーグ大公にランの街を譲ることで自身の解放を交渉した。ユーグはその後ランの街をティボー1世に与えた[4]。
ティボー1世は942年よりトゥール伯およびブロワ伯、960年からはシャトーダン伯およびシャルトル伯となった[5]。
ティボー1世の異母妹アデライードはブルターニュ公アラン2世と結婚し、アラン2世はレンヌに至るまでの地域に対し、ティボー1世に支配力を与えた[6]。しかし、アラン2世の死によりブルターニュに政治空白が生じ、ノルマン人やアンジュー家からの侵入に対して脆弱な状態となった[7]。ティボー1世はアンジュー伯フルク2世と同盟を結び、アンジュー辺境領を守るためにロワール川とトゥエ川の間に造られた城塞ソミュールの支配権を与えた[7]。これにはソミュール城壁内にあるサン=フロラン修道院の支配権も含まれていた[7]。一方、最近妻を亡くしたばかりのフルク2世は、ティボー1世の妹でブルターニュ公アラン2世の未亡人アデライードと再婚した[7]。
960年、ティボー1世はノルマンディー公リシャール1世と対立するようになり、ノルマン人との長い戦いが始まった。
961年、ティボー1世はエヴルーを攻撃した[8]。これに対し、ノルマンディー軍はデュノワを攻撃した。
962年、ティボーはルーアンへの攻撃を開始したが失敗に終わった[8]。ティボー1世はロワール=エ=シェールのサン=テニャン要塞、ヴィエルゾンおよびベリーのアンギヨン要塞の支配権を握った。ユーグ・カペーが幼年の間、彼はシャルトルとシャトーダンの軍備を増強した。また、シノン城を建設した。
ティボー1世は975年のその死までに、ロワール川流域で巨大な力を築き、フランス中部を支配した。
943年か944年に[9]、ティボー1世はノルマンディー公ギヨーム1世の未亡人リューガルド・ド・ヴェルマンドワと結婚している[10]。リューガルはヴェルマンドワ伯エルベール2世と西フランク王ロベール1世の王女アデールの娘で[11]、義母アデールはフランス公ユーグ大公の異母姉にあたる[12]。
リューガルド・ド・ヴェルマンドワとの間に以下の子女をもうけた。
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