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スティーブン・アンドスカー(Steven Andskär、1964年10月31日 - )は、スウェーデン・ストックホルム出身の元レーシングドライバー。
1981年、スウェーデンカート選手権でモーターレーシングのキャリアがスタート。1984年に個人資金でヨーロッパF3選手権の地元スウェーデン開催ラウンドにスポット参戦。スウェーデンF3選手権、イギリスF3選手権へも参戦した。スウェーデン選手権ではランキング5位であった。1985年はノルディックF3選手権、スウェーデンF3選手権、フィンランドF3選手権ではラルト・RT30で優勝を挙げることができたが、より多くの競争があるヨーロッパF3とイギリスF3ではポイント獲得ができなかった。
1985年からは同国の先輩で日本のレースを熟知するエジェ・エルグの協力により、日本でのレース活動を開始。全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)に福井清志代表率いるオートビューレック(後のステラインターナショナル)より参戦した(1988年まで)。
1987年、ロニ・モータースポーツと契約し国際F3000選手権にマーチ・87Bで参戦し、最高位は9位だった。国際F3000には1988年もコブラ・モータースポーツよりスポット参戦するが、選手権ポイントは獲得できなかった。1989年には全日本F3000にSUNDAI SPIRITからスポット参戦したが、フォーミュラへの参戦はそれが最後となった。
JSPCでは1989年にトラスト・レーシングへ移籍。スタンレー・ディケンズ、高橋国光と組みポルシェ962GTi[2]でランキング3位を獲得。トラストとアンドスカーの信頼は確かなもので、1994年までスポーツカーレースではトラストレーシングから参戦した。
ル・マン24時間レースには1989年から7回出場しており、1992年にはNISSO・トラストトヨタ92CVでジョージ・フーシェ、ステファン・ヨハンソンと共にクラス優勝(総合5位)も果たし、総合ではトヨタ・94C-V LMで参戦した1994年に4位フィニッシュの最高成績を残した。
1997年、全日本GT選手権(JGTC)に太田哲也が立ち上げた「チーム・フェラーリ・クラブ・オブ・ジャパン」(TFCJ)から参戦。太田のチームメイトとしてアンデルス・オロフソンとシートをシェアする形でフェラーリ・F355をドライブした。翌1998年も同体制で継続参戦していたが、同年5月3日の富士スピードウェイでの炎上事故(太田が大火傷を負った)によりチームは活動を停止。アンドスカーのレースキャリアもそれが最後となり、以後参戦していない。
年 | チーム | コ・ドライバー | 使用車両 | クラス | 周回 | 総合順位 | クラス順位 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1989年 | リチャード・ロイド・レーシング | デヴィッド・ホブス デイモン・ヒル |
ポルシェ・962C GTi | C1 | 228 | DNF | DNF |
1990年 | トラスト・レーシングチーム | ジョージ・フーシェ 粕谷俊二 |
ポルシェ・962C | C1 | 330 | 13位 | 13位 |
1991年 | クラージュ・コンペティション トラスト・レーシング |
ジョージ・フーシェ | C2 | 316 | DNF | DNF | |
1992年 | ニッソートラスト・レーシング | ステファン・ヨハンソン ジョージ・フーシェ |
トヨタ・92C-V | C2 | 336 | 5位 | 1位 |
1993年 | ジョージ・フーシェ エイエ・エリジュ |
トヨタ・93C-V | C2 | 358 | 6位 | 2位 | |
1994年 | ジョージ・フーシェ ボブ・ウォレク |
トヨタ・94C-V | LMP1/C90 | 328 | 4位 | 2位 |
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