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ジェイムズ・D・ブラック
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ジェイムズ・ディクソン・ブラック(英: James Dixon Black、1849年9月24日 - 1938年8月5日[1])は、アメリカ合衆国の政治家、弁護士であり、1919年に第39代ケンタッキー州知事を7か月間のみ務めた。先代のオーガスタス・オウスリー・スタンレーがアメリカ合衆国上院議員に選ばれ、知事を辞任したことに伴い、ブラックが知事に昇格した。
概要 ジェイムズ・ディクソン・ブラックJames D. Black, 第39代 ケンタッキー州知事 ...
ジェイムズ・ディクソン・ブラック James D. Black | |
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第39代 ケンタッキー州知事 | |
任期 1919年5月19日 – 1919年12月9日 | |
前任者 | オーガスタス・スタンレー |
後任者 | エドウィン・P・モロー |
第32代ケンタッキー州副知事 | |
任期 1915年12月7日 – 1919年5月19日 | |
前任者 | エドワード・J・マクダーモット |
後任者 | S・サーストン・バラード |
個人情報 | |
生誕 | (1849-09-24) 1849年9月24日 ケンタッキー州ノックス郡 |
死没 | 1938年8月5日(1938-08-05)(88歳没) ケンタッキー州バーバービル |
政党 | 民主党 |
配偶者 | メアリー・ジャネット・"ネッティ"・ピッツァー |
出身校 | タスカラム・カレッジ |
専業 | 弁護士 |
宗教 | メソジスト監督教会 |
署名 | ![]() |
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ブラックは1872年にテネシー州のタスカラム・カレッジを卒業し、法律を勉強しながら教師を務めた。1874年に法廷弁護士として認められ、バーバービルで法律事務所を開いた。その後、息子と義理の息子がその事業の共同経営者になった。ブラックは教育に大変興味があり、2年間ノックス郡公立教育学区の監督官を務め、バーバービルにユニオン・カレッジを設立する推進者になった。ブラックはこのカレッジの学長を1910年から1912年まで務めた。
1915年、ブラックは州知事選挙で民主党の副知事候補に選ばれた。それまで政治の経験はほとんど無かった。州知事オーガスタス・スタンレーと共に当選し、スタンレーがアメリカ合衆国上院議員に就任するために知事を辞任したことに伴い、ブラックが知事に昇格した。知事であった7か月間、その再選を目指した選挙運動に費やされた。その対抗馬である共和党のエドウィン・P・モローから、スタンレー政権に対してなされた汚職の告発に、満足に答えることができなかった。選挙ではモローが4万票以上の差をつけて当選した。ブラックはバーバービルでの法律実務に復帰し、その兄が設立した銀行の頭取を務めた。アルバン・バークレーがアメリカ合衆国上院議員を目指した時に選挙マネジャーを務めていたが、その間の1938年8月5日に死んだ。