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クリスティアン・ゴットフリート・ダニエル・ネース・フォン・エーゼンベック(Christian Gottfried Daniel Nees von Esenbeck、1776年2月14日 – 1858年3月16日)は、ドイツの博物学者、医師である。ゲーテと同時代人[1]で、リンネの存命中に生まれ、博物学者として多くの動植物の記載を行うとともに、1818年から1858年までドイツ自然科学アカデミー・レオポルディーナ (Leopoldina) の会長を務めた。
ライヒェルスハイムに生まれた。弟に植物学者のテオドール・フリードリヒ・ルートヴィヒ・ネースがいる。イェナ大学で、哲学と医学を学んだ。アウグスト・バッシュ(August Batsch)、ローダー(Justus Christian Loder)、フーフェラント(Christoph Wilhelm Hufeland)らが当時の教授陣である。1800年にギーセン大学で学位を得てオーデンヴァルトに戻るとエアバッハで医師の職に就き、エアバッハ伯フランツ1世の宮廷医師に任ぜられる。1816年、レオポルディーナへの加盟を認められる[2]。1818年、同第11代会長 (1818-1858)[3]。
1802年8月19日、シッカースハウゼン(現・キッツィンゲン郡)で名門貴族、ディットフルト家(Ditfurth)の娘ヴィルヘルミーナ・ルイーズ・カタリーナ・フォン・ディットフルト(1773-1803)と結婚し妻の地所に移ると、フォン・エーゼンベックは研究に専念した。ところが、この妻を1803年9月22日に亡くすと、それまで名乗っていた姓フォン・エーゼンベックに「ネース」を加えて名乗るようになる。短い喪の後、1804年3月5日にエリザベタ・ヤコビナ・フォン・メッティン(1783-1857)と再婚し、3人の娘と2人の息子をもうける。
ネース・フォン・エーゼンベックは1830年初めに家族のもとを離れ、同僚ディートリヒ・ヒュルマン Karl Dietrich Hüllmann の妻であったマリー・ヒュルマンとブレスラウで暮らし始める。ボン植物園からも遠ざかった。同年10月10日、正式に離婚が成立すると3年後の1833年にマリーと再婚し、結婚生活6年を過ごす。ヒュルマンには子供が3人あった。
1816年にレオポルディーナの会員[2]になり、昆虫学者のクルーク (ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ、Johann Christoph Friedrich Klug)と親密に交際し、また自宅に多くの科学者を招く。ネース・フォン・エーゼンベックのもとに集まった顔ぶれはレオポルディーナの会員が多く、ヨーゼフ・イドゥアルト・ダルトン Joseph Eduard d’Alton(美術史家・版画家)[4]、イグナーツ・デリンガー Ignaz Dollinger (植物学・生理学)[5]、ギオルグ・アウグスト・ゴルドフス Georg August Goldfuss (古生物学・地質学)[6]、ネース・フォン・エーゼンベックの次の会長ディートリッヒ・ゲオルグ・キーザー Dietrich Georg von Kieser (精神科医)[7]、あるいはエリアス・フォン・シーボルト Adam Elias von Siebold (婦人科医・子息はシーボルト)[8]や会員ではないがクリスチャン・フリードリヒ・ホーン・シュッフ Christian Friedrich Horn Schuch もたびたび訪れる。
科学者との交流は会議や議論だけでなくクリスティアン・パンダーやカール・エルンスト・フォン・ベーアには鶏の胚発生の実験に助言した。自宅に滞在させた自然哲学者のローレンツ・オーケン (1779-1851) が何本か論文を著すと、その初期作の書評も書いている。
1817年からエルランゲン大学で植物学の講師となり、1818年にはボン大学の博物学と植物学の教授となった。同年、レオポルディーナ会長に選ばれている[2]。ボン時代は弟のテオドール・フリ-ドリッヒ・ルードヴィッヒ・ネースとともにボン大学植物園の再建を指揮した[9]。1819年にヴァイマルでゲーテに面会、後年の1823年にアオイ科の種にGoethea semperflorens(Pavonia semiserrata (Schrad.) のシノニム)とGoethea cauliflora にゲーテの名前を献名し手紙で知らせている[1]。これらの植物はブラジルで採集され、探検家でもあったヴィート公マクシミリアン(Maximilian zu Wied-Neuwied)から託されたものである。
1830年にヴロツワフに移ったネース・フォン・エーゼンベックはドイツのカトリック運動に参加し、政治的な活動も行って1848年にはヴロツワフの労働者協会の設立に尽力する。ベルリン労働者会議(Berliner Arbeiterkongresses)議長を務めるとプロイセン国民会議(Preußische Nationalversammlung)副議長に選出される[10]ものの、そのためにヴロツワフ大学の教授職を追われ、1858年3月16日(82歳没) ヴロツワフで没した。
Karl Moritz Gottsche、Johann Bernhard Wilhelm Lindenbergと共著 Synopsis Hepaticarum, 1844-1847年。 ハンブルク、全5部
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