オットー・ルズヴィ・シンディング(Otto Ludvig Sinding、1842年12月20日 - 1909年11月22日)は、ノルウェーの画家、詩人、劇作家。主にノルウェーの自然や庶民の生活、歴史を絵の題材とした。
生い立ち
1842年、コングスベルグに鉱山監督であった父マティアス・ヴィルヘルム・シンディング( (Matthias Wilhem Singing) 、1811-1860)と母セシリー・マリー・メデル(Cecilie Marie Mejdell ,1817–86)との間に生まれる。彫刻家のステファン・シンディング (Stephan Sinding) と作曲家のクリスティアン・シンディングは弟で、叔父ニコライ・メデル (Nicolai Mejdell) ,1822-1899は鉱山技師、ソルヴァルド・メデル (Thorvald Mejdell) , 1824-1908)は森林監督官であった[1]。また、従兄弟のグレア・ソルヴァルド・メデル (Glør Thorvald Mejdell) はシンディングの妹ソーラ (Thora Cathrine Sinding)の夫でもある[2]。その他の従兄弟にアルフレド・シンディング=ラーセン (Alfred Sinding-Larsen) と、アーネスト・アントン・ヘンリック・シンディング (Ernst Anton Henrik Sinding) 、エリザベス・シンディング (Elisabeth Sinding)、グスタフ・アドルフ・シンディング (Gustav Adolf Sinding)三兄弟がいる[1]。
1874年4月、シンディングは絵画の師ハンス・ギューデ(Hans Gude)の養女、アンナ・クリスティン・ニールセン(Anna Christine Nielsen、1855–1914)とカールスルーエで結婚した。ふたりの息子シグムンド・シンディングも著名な画家となった[1]。
略歴
はじめクリスチャニア(現オスロ)の芸術学校に入り、法律を学んで公務員になった。学業を続けるためドイツのカールスルーエに移り、奨学金を稼ごうとはじめて風景画を描いた。カールスルーエでは、バーデン芸術学校(Baden School of Art)でハンス・ギューデに師事した[3]。 ヴィルヘルム・リーフスタルやカール・フォン・ピロティと知己になったのもこのときである
1876年にノルウェーに戻り、クリスチャニア(オスロ)のパウロ教会でキリストの祭壇画を描いたり、ノルウェーの民話を題材にした絵や印象的な海岸線の絵を描いた。1880年、イタリアへ旅行した後ミュンヘンに移住し、田園風景や海を生き生きと描いた一連の作品を描いた。1886年の冬の間ロフォーテン諸島に旅して絵の取材をした。シンディングの最もよく知られた作品は皆ロフォーテン産である。1891年、クリスチャニア郊外のリサケルに家を建てた。1903年からはミュンヘン美術院で教授をつとめ、1909年11月、ミュンヘンで死去した[1]。
脚注
外部リンク
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