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アーモン・レオポルト・ゲート(ドイツ語: Amon Leopold Göth , 1908年12月11日 ‐ 1946年9月13日)は、ドイツのナチス親衛隊将校。親衛隊における最終階級は親衛隊大尉 (SS-Hauptsturmführer)[1]。
第二次世界大戦中、クラクフ・プワシュフ強制収容所の所長を務めた。戦後にポーランドの法廷から戦争犯罪人として起訴され、ユダヤ人虐殺の責任を問われて死刑判決を受け、刑死した。 スティーヴン・スピルバーグの映画『シンドラーのリスト』の主要人物として著名。愛称はモニー (Mony)[2]。
アーモン・フランツ・ゲート (Amon Franz Göth) とその妻ベルタ(Bertha、旧姓: シュヴェント〈Schwendt〉)の間の一人息子としてオーストリア=ハンガリー帝国首都ウィーンに生まれた。父フランツは軍事専門書を扱う「アーモン・フランツ・ゲート出版社 (Verlagsanstalt Amon Franz Göth)」のオーナーだった。ゲート家はカトリックを熱心に信仰する家庭で経済的には上層中産階級に位置した[3]。当時高級品だった自動車も所有していた[4]。
父フランツは海外出張が多く、母ベルタがその留守に会社を預かって経営を行っていた。両親ともに仕事が忙しかったため、父方の叔母のケーテ (Kathy) がゲートを養育した[4][2]。
ゲートはウィーンの小学校を卒業した後、実科ギムナジウムを出る。その後、ヴァイトホーフェン・アン・デア・ターヤの大学で経済学を学んだ[5][3]。
卒業後にはウィーンに戻り、父の会社で働いた[5]。
学生時代からナチズムに共感し、1925年に国家社会主義ドイツ労働者党オーストリア支部(オーストリア・ナチス)の青年組織に参加した[3]。やがて不統一なオーストリア・ナチスより護国団の方に惹かれ、1927年には護国団の中でも特に反ユダヤ主義が強い「シュタイアーマルク郷土防衛」のウィーン支部に入団した。しかし1930年にオーストリア・ナチスと護国団の議会選挙共闘の試みが失敗した後には、ナチスに賛同してシュタイアーマルク郷土防衛から離れている[6]。
1931年5月31日にナチ党に正式な党員として入党している(党員番号510,764)[6][1]。1932年に親衛隊(SS) に入隊した(隊員番号43,673。1930年入隊とする資料も存在するが、正規の入隊は1932年であると思われる)[6]。1933年春に親衛隊軍曹 (SS-Scharführer) に昇進[7]。
ドイツでナチ党が政権を取った1933年、オーストリアではナチ党への警戒が高まり、ナチ党は非合法政党にされた。オーストリアのSS部隊はテロ活動を本格的に行うようになった。ゲートも1933年に反ナチ的なオーストリア政府公務員に対して暗殺テロを行い、ドイツへ国外逃亡している。以降ゲートはドイツとオーストリアを密入国で行き来するようになった。1934年7月にナチ党員によるオーストリア首相エンゲルベルト・ドルフースの暗殺事件があり、オーストリアで6000人のナチ党員が逮捕された。ゲートもこの際に逮捕された一人だった。しかしゲートは脱走に成功し、ドイツのミュンヘンへ逃れている[8]。
しかしミュンヘンで親衛隊地区VIII区指導者アルフレート・ビクラー親衛隊上級大佐と対立を深め、1934年から1937年にかけて親衛隊を追放された[7]。その間はミュンヘンで家業の出版業に従事していたという[8]。1937年に親衛隊への復帰を許され、1938年春にアンシュルス(ドイツによるオーストリア併合)があると、ウィーンに戻った[9]。親衛隊のフルタイム隊員となり、ウィーンに駐留する一般親衛隊部隊「第89親衛隊連隊」(SS-Standarte 89)に所属した[9]。親衛隊人種移住本部の許可を得て1938年10月23日にインスブルック生まれのアニー・ガイガー (Anny Geiger) と結婚した[9]。彼女との間に3人の子供を儲けており、うち2人が無事成長した[10]。1940年11月に親衛隊曹長 (SS-Oberscharführer) に昇進した[11]。
1940年にカトヴィッツ(旧ポーランド領。ポーランド侵攻後、ドイツ領に編入された)へ派遣され、ドイツ民族対策本部 (VOMI) カトヴィッツ支部で現地のドイツ民族を保護・編入する作業にあたった[12][11]。1941年11月には親衛隊少尉 (SS-Untersturmführer) に昇進[13]。1942年8月からは「ラインハルト作戦」の執行責任者であるルブリン地区親衛隊及び警察指導者オディロ・グロボクニク親衛隊少将の事務所で勤務し、ルブリン・ゲットーはじめ各地のゲットー解体(ゲットー住民を働ける者・働けない者に選別し、それに応じて殺害もしくは絶滅収容所・強制収容所への移送を行うこと)の作戦に従事した[14]。その際の残虐さからゲートは「ルブリンの血に飢えた犬」と呼ばれた[15]。
この「功績」でゲートは、1943年2月11日に「クラカウ(クラクフ)地区親衛隊及び警察指導者のプラショフ(プワシュフ)強制労働収容所」 (Zwangsarbeitslager Plaszow des SS– und Polizeiführers im Distrikt Krakau) の所長に任命される[15]。親衛隊少尉クラスとしては異例の所長就任であるが、東部戦線の戦況悪化で人員が不足していたのがその原因とみられる[16]。「親衛隊及び警察指導者の強制労働収容所」は強制収容所と違って統一的な規則がなく、所長であるゲートが絶対的権限を有した[16]。所長就任に際しての囚人に向けた演説の中でゲートは「俺はお前たちの神だ。ルブリンで俺は6万人のユダヤ人を片づけた。次はお前たちの番だ」と述べた[17]。
1943年3月13日から3月14日にかけて行われたクラクフ・ゲットーの解体もゲートが陣頭指揮をとっており、大勢のユダヤ人を殺害しつつ、働ける者は自らの強制収容所へと移送した。1943年7月には東部(ポーランド)親衛隊及び警察高級指導者フリードリヒ・ヴィルヘルム・クリューガーSS大将とクラクフ親衛隊及び警察指導者ユリアン・シェルナーSS准将から推薦を受けて二階級特進があり、親衛隊大尉 (SS-Hauptsturmführer) となった[16][18]。
所長になったばかりの1943年春から夏にかけてはプワシュフ収容所は、ゲートの限界を知らぬ恣意的な殺戮によって支配されたという[19]。身長193cm、体重120kgの巨漢であったゲートは、すぐにサディスト的性向を示し、毎朝狙撃銃で囚人を狙撃するなど恣意的殺人を行った。ゲートの命令一つで囚人に襲いかかる二頭の飼い犬(グレートデンの「ロルフ」とシェパードとシベリアオオカミの雑種という「ラルフ」)をよく連れ回し、囚人を襲わせる事も多かった[20]。ゲートに直接殺害された囚人は500人以上にのぼり、そのため「プワショフの屠殺人」というあだ名をつけられることになった。
囚人を処刑したのちはその記録を逐一記録カードに収めた。これはその親類も残さず抹殺するという目的があり、収容所に不満分子が残ることを恐れたための措置であった[21]。しかしプワシュフ収容所が親衛隊経済管理本部 (WVHA) 管轄の強制収容所 (Konzentrationslager) となった1944年1月以降にはゲートも恣意的な射殺を控えざるを得なくなったという。親衛隊経済管理本部は看守が奴隷労働力たる強制収容所囚人を恣意的に殺害することに目を光らせており、囚人の処刑・拷問には本部の許可を得ることを義務付けていたからである[22]。
1944年4月20日には武装親衛隊予備役の親衛隊大尉となり、これによりゲートは軍人の将校に列した。ゲートはこれを大いに喜び、親衛隊人事本部長マクシミリアン・フォン・ヘルフ親衛隊大将からの辞令を自慢げに見せて回ったという[16]。
ゲートは国庫に収められるべきユダヤ人から没収した財産を横領しており、その金で豪勢に暮していた。屋敷でパーティー三昧の生活を送り、毎週新しい靴を作らせ、自家用馬や自家用車を数台所有していた[23]。プワシュフ収容所はブラシ、ガラス製品、繊維製品、靴の製造を行っていたが、いずれも戦争遂行に絶対的に必要な物とは言えなかったため、この収容所は常に閉鎖の危険があった。しかしまるまると肥っており、重い糖尿病を患っていたゲートは前線に送られることを嫌がり、なんとか贅沢三昧な生活を続けようとプワシュフ収容所の存続に努力していた[24]。プワシュフ収容所は拡張を続け、1944年夏の時点では2万4000人のユダヤ人囚人と少数のポーランド人囚人を抱えていた[25]。
ゲートは部下の親衛隊員に対しても冷酷に接し、ささいな罪状で親衛隊の規律委員会や警察に引き渡した。さらに自身はおおっぴらに闇取引を行った。彼の部下の親衛隊員たちは我慢の限界に達し、親衛隊捜査判事である親衛隊中佐コンラート・モルゲン博士に訴状を送るに至った。その中には「我が軍の兵士が東部戦線で死んでいるのに、ゲートはパシャのように暮らしている」と書いてあった[26]。
1944年9月13日、休暇中で故郷ウィーンに帰っていたゲートは、コンラート・モルゲン博士によって横領容疑と囚人虐待容疑により現地で逮捕された[27]。ルブリン強制収容所所長ヘルマン・フロアシュテットやブーヘンヴァルト強制収容所所長カール・オットー・コッホも同罪によりモルゲン博士によって逮捕され、処刑されている。
1945年初頭に証拠不十分でミュンヘンの裁判所はゲートに無罪判決を出しているが、ゲートは親衛隊から除隊することとなった[28]。またこの間の拘置所生活でゲートはだいぶ痩せた[29]。
1945年1月にはブリュンリッツ のオスカー・シンドラーの工場を訪問している。シンドラーは怯えるユダヤ人たちに「何も心配することはない。彼はもはや単なる民間人にすぎない。」と述べて安心させたという[30][31]。
ダッハウ強制収容所の跡地に設けられた捕虜収容所に収容されたゲートは、ドイツ国防軍の制服に着替え、アメリカ軍に対し自分は復員兵であると申告した。しかし正体がばれ、アウシュヴィッツ強制収容所所長のルドルフ・ヘスと共にポーランドに護送された。
1945年7月にクラクフに護送されたゲートに対し、8月から9月まで裁判が行われた。ゲートにかけられた罪状は、プワショフ収容所における8000人殺害の責任、クラクフ・ゲットーにおける2000人の虐殺に対する共同責任、いくつかの収容所での数百人の処刑に対する責任だった。検察側証人として法廷に呼んだユダヤ人の名前を読み上げる検察官に向かいゲートは「何? そんなにたくさんのユダヤ人がまだいるのか?豚どもは一匹も残ってはいないはずだったのにな」と叫んだ[32]。
裁判でゲートは自分はただの軍人に過ぎず、上官の命令に従っただけと主張した。罪状については他の親衛隊員の責任であって自分には一切の責任はないと語った。証人たちがゲートの殺人を証言する際には顔を背けたり、証言が誤りであると異論をはさんだりした。しかし結局ゲートは死刑判決を受けた。ゲートは自分が人間社会に役立つ一員であると力説して減刑嘆願書を書いたが、却下された[33]。
翌年9月13日にクラクフにて執行された。方法は絞首刑であったが、長身であったため2度もロープが切れて失敗した。3度目の刑執行でようやくロープで首の骨が折れて絶命した[34]。最期の言葉は「ハイル・ヒトラー」だった[33]。処刑の際の様子は、現在でも動画投稿サイトなどで目にすることができる。
スティーヴン・スピルバーグ監督の映画『シンドラーのリスト』(1993年)では、ゲート役をレイフ・ファインズが演じた。映画ではシンドラーと対照的な双子的存在の悪役として描かれる[58]。ファインズが演じたゲートのキャラクターは、2003年にアメリカン・フィルム・インスティチュートが行った、アメリカ映画100年の悪役ベスト50で15位に選ばれた。
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