アルベリーコ2世(Alberico II di Spoleto, 912年頃 - 954年8月31日)は、10世紀ローマにおいて最も権力を振るった貴族の一人。

概要 アルベリーコ2世 Alberico II, 出生 ...
アルベリーコ2世
Alberico II
ローマの支配者

出生 912年
死去 954年8月31日
配偶者 アルダ・ディ・プロヴェンツァ
子女 ヨハネス12世
家名 トゥスクルム家
父親 スポレート公アルベリーコ1世
母親 マロツィア
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生涯

アルベリーコ2世は、スポレート公アルベリーコ1世と、トゥスクルム伯テオフィラットの娘マロツィアの間の息子である。936年以後にイタリア王ウーゴの娘アルダと結婚した。

932年、母マロツィアとイタリア王ウーゴの結婚式を襲撃し、ウーゴをローマから追放し[1]、アルベリーコはローマの支配者となった。アルベリーコは母マロツィアと兄教皇ヨハネス11世を牢獄に幽閉し、ポルノクラシーの時代が終わった。

22年間、アルベリーコは「全ローマのプリンケプスおよび元老院議員(princeps ac senator omnium Romanorum)」としてローマを支配した。アルベリーコの支配下で、ローマの秩序と品位が元に戻った。951年、アルベリーコは東フランク王オットー1世が皇帝への戴冠のためローマに入ろうとするのを拒否した。統治下の教皇(レオ7世ステファヌス8世マリヌス2世アガペトゥス2世)は全て、アルベリーコにより擁立された。954年、ローマ貴族らに、次の教皇にアルベリーコの息子オクタヴィアヌスを就けることを誓約させた。オクタヴィアヌスは翌955年、ヨハネス12世として教皇位に就いたが、最も教皇にふさわしくない人物の一人であった。

脚注

参考文献

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