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史実上の動物の象 ウィキペディアから
アブル=アッバース (英語: Abul-Abbas, ラテン語: Abul Abaz, Abulabaz)は、フランク王国カロリング朝の西ローマ皇帝、カール大帝(シャルルマーニュ)が、ときのアッバース朝のカリフ、ハールーン・アッ=ラシードより贈られたとされる象の名。
この象の呼び名を含め、その贈与のいきさつについては、同時代に編纂されたと思われるフランク王国年代記に詳しい[1][2]。また、アインハルトの『カール大帝伝』にも「象」の贈物について、事実を違えて略述されている[3][3][注釈 1]。また、ノトケル・バルブルス『カール大帝行伝』(Gesta Caroli Magni)にも記述があるが、これはより後年に編纂された作品である[5][注釈 2])。ただ、アッバース朝側の記録には、そうした一連の事実は伝わっていない[7][8]。
ハールーン・アッ=ラシード から進呈された生きた象の運搬は、カール大帝の王命を帯びてバグダードに行きフランク王国に帰還する使節、ユダヤ人イザーク (ラテン語: Isaac)の手にゆだねられた。(以下、「イザーク」はじめ、人名はラテン読みではなくドイツ読みを用いる)。
『フランク王国年代記』によれば、カール大帝は、ときを遡ること4年(つまり797年)にバグダードに座するハールーン・アッ=ラシード へイザークを含む3人の使節団を派遣していたが、801年になって、かれら3人の消息をイスラーム教圏側の使者のつてより知ることとなった。報によれば、イザークは象を託されて帰途についたものの、のこるラントフリートとジギムントは死んだという[2][9]。報せをもたらした使者のひとりはハールーンが差し遣わした者だったが、もうひとりはアフリカ(アグラブ朝イフリーキヤ)の総督イブラーヒーム・イブン・アル・アグラブからの使者であった[2][10]。 これを聞くやカール大帝は、エルカンバルトという名の書記官〔ノタリウス〕を リグーリア州 (ジェノヴァ市のある州) に派遣して、その象などの荷を搭載するための船団を手配させた[2]。
史書いわく、このときイザークは、アフリカを経由したが[2]、研究家によってその精密な航路の再現が試みられており、エジプト沿岸にそって、イフリーキヤを経由し、 その王都カイルーアン(現今のチュニジアに所在)に座する前述のイブラーヒーム総督からの援助をあるいは受けながら、同国の港カルタゴを出港し、地中海を渡り、イタリアへたどりついたとの仮説がたてられている[11][12]。
ともあれ、『フランク王国年代記』によれば、「ユダヤ人イザークは象を伴いアフリカより帰還し(ラテン語: Isaac Iudeus de Africa cum elefanto)」[2]、ポルトヴェーネレ (ジェノヴァ市ちかく)に801年10月、帰港した[13][2]。しかし冬が迫るためヴェルチェッリに留まり、翌年までアルプス越えを延期した。そしてようやく802年7月20日にカール大帝の王宮のあるアーヘンに到着した[14][2][9]。
810年、カール大帝は、フリースラントを侵したデンマーク王 ゴズフレズの艦隊を迎撃しようと遠征に出た。ライン川を渡河したのち「リッペハム」(ラテン語: Lippeham)という場所で、3日間のあいだ残りの軍の結集を待っていたが、その間に「サラセン人の王アーロンから贈られた象 (ラテン語: elefans ille, quem ei Aaron rex Sarracenorum miserat)」、が急死したとしている。[1][2] 「アーロン」とは、「ハールーン」のラテン読みである。
象は王都に残されて死を迎えたのではなく、カール大帝の遠征にともなわれて「リッペハム」で死んだものと一般に解釈されている。書籍によっては、より穿った見方をして、戦象として利用するつもりであったと解説している[15][16][9]。
象が死んだとされる「リッペハム」があった実在の場所の確たる特定はできまいが[17]、「リッペ川の河口」[17] (すなわちライン川との合流点)、言い換えれば現今のノルトライン=ヴェストファーレン州ヴェセル市あたりとするのが通説である[18][19]。この説については、すでに1746年[20] (あるいは1735年[21])に、 J. H. Nünning (Nunningus)(1675 - 1753) 他が出版した「書簡」 において「リッペハム」はヴェセル市だと指摘されており[22]、そこから出土した巨大な骨が、その(ミュンスターの?)博物館の所蔵品であり、あるいはアブル=アッバースの遺骨の一部ではないかと推察された[23]。その後1750年初頭に、ガルトロップ貴族領〔ヘルシャフト〕内では、リッペ川での漁獲で巨大な骨が見つかり、これについても当時アブル=アッバースの遺骨との憶測がなされている[21]。
アブル=アッバースの死に場所の異説として、リチャード・ホッジズなどは、リューネブルガーハイデに所在するとするが、そこは、上述のヴェセルがあるラインラント地方どころか、ライン川からは程遠い土地である[24]。
近年の著書のいくつかには、上述の『フランク王国年代記』などの史料に裏付されない内容や詳細も書かている。
たとえばアブル=アッバースがやってきたとき、それを目の当たりにした民衆を驚かせながらドイツ・フランスの町々に見世物として行進した[16]、具体的にシュパイエル、シュトラスブルク、ヴェルダン、アウクスブルク、パデルボルンなどを通り皇帝の威光を誇示した[15]、象はやがて(現今の南バイエルンの)アウクスブルク市に飼育小屋を与えられた[16]、などとする諸書籍がある。
また、象が死んだとき40歳を超えていた、だとか、カール大帝の遠征に連れて行かれた時にはリウマチの既往症があった、などとも書かれている[15]。こうした書籍によれば、「冷涼で雨勝ちな天候」 のさなか、 アブル=アッバースは肺炎を発症したのだという[15][16]。その世話係たちは、ようやく象をミュンスターまでたどり着かせることができたが、そこで象は倒れて息絶えた、などとしている[15]。
近著のなかには、アブル=アッバースがアルビノもしくは白象と断ずるものがある。早い例では、アメリカのWillis Mason West の著作(1902年)に「白い象」だとの記述がある[25]。さらに1971年、ニュージーランドの歴史学者ピーター・マンツが著した大衆向けの本にやはり「白い象」だったとの記述があるが、ある書評者はこれを誤謬としており、自分の知るかぎり白象であるという証拠はないとしている[26]。 また、「白象」への言及は、2003年にアーヘン市で開催された展示会に付帯する出版物『Ex oriente : Isaak und der weisse Elefant』の題名にもあるが、そこに収録された Grewe 、Pohle 共著の寄稿では「カール大帝への有名な贈物のひとつに(白い?)象があった」と、疑問符を加えている[27]。
近著のなかには、アブル=アッバースがインド象だと[15]断じている書がある一方で、アフリカ象の可能性も十分にあり、どちらかは判じかねると説く文献もある[28]。
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