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平安時代後期から末期の公卿・歌人 ウィキクォートから
藤原忠通(ふじわら の ただみち、1097年‐1164年)は、平安時代後期から末期の日本の公卿。従一位・摂政、関白・太政大臣。通称は法性寺関白(ほっしょうじ かんぱく)。千載和歌集・小倉百人一首等では法性寺入道前関白太政大臣。「忠通」は大江匡房の名付による。1121年より摂関歴37年は高祖父・藤原頼通の50年に次ぐ。忠通が藤氏長者となった時は既に摂関政治は形骸化していたが、鳥羽院や平氏といった院政勢力と結びつき、保元の乱に続く、平治の乱でも実質的な権力者・信西とは対称的に生き延びた。晩年は後白河院と対立し不遇であったが、忠通の直系子孫のみが五摂家として原則的に明治維新まで摂政・関白職を独占する事となった。
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