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戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。軍中使番十二人のうちの一人。武田信玄の傳役。筑前守。金丸光重=藤次(光信、一色藤直の子)-虎嗣(-1536.9.20、若狭守、金丸忠経)-虎義 ウィキペディアから
金丸 筑前守(かねまる ちくぜんのかみ)は、戦国時代の武将。『寛政重修諸家譜』は諱を虎義とする[1]。武田信玄に仕えた[1]。軍中使番十二人のうちの一人[2]。
生年は不明[3]。
父は、『寛政重修諸家譜』では虎嗣(若狭守)[1]。『甲斐国志』『甲陽軍鑑』では金丸忠経(若狭守)とするが、両人は活動時期の重なる同世代の人物であることが指摘される[3]。忠経(若狭守)は『甲斐国志』によれば天文5年(1536年)9月5日に死去したとしているが、それ以降の活動も見られることから誤りであることが指摘され、忠経・筑前守の父に相当する「金丸若狭守」が存在した可能性が考えられている[3]。
諱は『甲斐国志』や『寛政重修諸家譜』[4]では「虎義」としているが、確実な史料からは確認されない。虎義の「虎」の字は信虎より賜ったものと思われる。
武田信玄の傳を務めたという。躑躅ヶ崎館を預かった[5]。伊那攻め、佐久攻略戦に参加。
『甲陽軍鑑』によれば、筑前守は武田家の使番を務めたという[3]。永禄9年(1566年)8月晦日に、信玄側近の市川家光から甲府城下南部・一条小山に立地する一蓮寺内の軸屋敷跡の安堵を命じられている[3][6]。永禄10年(1567年)3月6日には武田家臣・真田幸綱(一徳斎幸隆)が上野国の白井城(群馬県渋川市)を攻略した際に、箕輪城(群馬県高崎市)に在番していた春日虎綱(高坂昌信)との談合を命じられている[7]。
元亀2年(1571年)8月8日に死去[3]。墓所は山梨県南アルプス市徳永の長盛院。法名は『甲斐国志』所収の長盛院に伝わる位牌によれば、「長盛院玉叟浄金庵」とされる[3]。『甲斐国志』では筑前守の没年を元亀3年(1572年)で、法名を「長守院大叟照公禅定門院」とする異説を紹介しこちらを妥当としているが、確定されていない[3]。『寛政重修諸家譜』では、没年は不明、法名を存九とする[5]。
『甲斐国志』『甲陽軍鑑』によれば、筑前守の子息には金丸平三郎・土屋昌続・金丸平八郎・秋山昌詮・金丸助六郎・土屋昌恒・土屋惣八・秋山源三郎がいる[3]。
筑前守の嫡男である平三郎は永禄3年(1560年)を終見史料とし、以降は足跡が途絶える[3]。『甲陽軍鑑』によれば平三郎は武田信廉の被官に殺害されたという[3]。金丸氏の家督は助六郎が継承し、天正10年(1582年)3月の織田・徳川連合軍の甲斐侵攻に際して死去している[8]。助六郎の子孫は結城秀康の家臣となっている[3]。
一方、筑前守の次男・昌続(昌次)は武田家の奥近習六人の一人となり、永禄4年(1561年)の川中島の戦い以降に土屋氏の名跡を継ぎ信玄の側近となる[9]。昌続は天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いにおいて戦死し、弟の昌恒が家督を継承した[9]。
筑前守の三男・昌詮は武田家の譜代家老・秋山虎繁(信友)の女婿となり秋山氏を継ぐが、天正7年(1579年)7月23日に病死する[10]。その後、筑前守の七男・源三郎(親久)が同じく虎繁の女婿となり、秋山氏を継承する[11]。源三郎は天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡の際に戦死しているが、『寛永諸家系図伝』では伊豆大平へ逃れた子孫がいたとする伝承を記している[10]。
娘のうち一人は多田昌俊(三八郎)に嫁いだ[4]。他にも諏訪家重臣、小澤主善にも娘を嫁がせている。
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