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平安時代の公卿 ウィキペディアから
朱雀朝の天慶3年(940年)文章生に補せられると、翌天慶4年(941年)少内記兼六位蔵人に任官。式部丞を経て、天慶8年(945年)従五位下・摂津守に叙任された。またこの間、天慶6年(943年)に藤原敦忠が没するまで、敦忠の家令も勤めている。
村上朝に入ると、天暦4年(950年)従五位上・右衛門権佐として京官に復す。天暦6年(952年)左少弁に任ぜられると、天暦8年(954年)右中弁、天暦9年(955年)正五位下・左中弁、天暦11年(957年)従四位下、応和元年(961年)従四位上と弁官を務めながら順調に昇進していく。村上朝末の康保3年(966年)蔵人頭兼右大弁に任ぜられると、翌康保4年(967年)参議に任ぜられ公卿に列した。
議政官として左右大弁を兼帯し、安和2年(969年)円融天皇の即位に伴って正四位下に叙せられた。また、安和3年(970年)には民部卿を兼帯し、これを卒去まで約30年近くに亘って務めている。天禄2年(971年)上﨟の参議5名(源重信・源重光・藤原兼通・藤原済時・藤原斉敏)を超えて従三位・権中納言に昇任され、約20年近くに亘る弁官の職を離れた。また同年には真覚を開山として大雲寺を創建している。その後も天禄3年(972年)中納言、貞元2年(977年)正三位と昇進を続けた。
花山朝では昇進はなかったが、一条朝の寛和2年(987年)に漸く従二位に昇った。永延2年(988年)に次男の為雅を備中守に任官させる代わりに、自身は中納言を辞任。
天慶6年(943年)3月の藤原敦忠の死まで、文範は敦忠の家令を勤めていた。生前の敦忠は北の方(藤原玄上の娘)を非常に愛していたが、ある時北の方に対して、自らが短命でまもなく死ぬであろう事、死後には北の方が敦忠の家令であった文範と夫婦になるであろう事を予言し、敦忠死後にその通りになったという[1]。
『公卿補任』による。
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