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清華大学蔵「清華簡」から発見され整理された、周代の歴史を記録した歴史書 ウィキペディアから
『繋年』(けいねん)は、清華大学蔵「清華簡」から発見され整理された、周代の歴史を記録した歴史書である。中国古代の歴史文化を研究する上で非常に重要な価値がある。
『繋年』に記された出来事から、研究者は楚の粛王の頃に作られたと推定しており、成書時期は『竹書紀年』より早い。『繋年』は計138枚の竹簡で、一部に損傷は有るものの保存状態は概ね良好である。全篇は23章に分かれ、西周初期から戦国前期までの歴史を概述している。そのうち1-4章は西周の勃興から滅亡まで、武王の克殷・周公の東征、西周が滅亡し、平王が東遷する過程、晋・鄭・楚・秦・衛などの諸侯国の興起を説明する。5-19章は春秋・戦国時代の歴史、20-23章は戦国時代初期の内容で、下限は戦国中期の楚の粛王の時期である[1]。
『繋年』の目的は当時の諸国の状況の起源と発展を講述することである。とりわけ、戦国時代前期の歴史に関する章は、記載のある重大な出来事の多くが伝世文献に記載がなく、古代史の空白を埋めている。文献中の記載の多くは『春秋左氏伝』・『国語』・『史記』などの関連文献と対照でき、伝世文献の記載を補足・訂正することで、歴史学と経学で長く論争の的となっていた、周代の「三監」・「共和執政」の正確な意味、平王の東遷、秦人の起源などの重要な問題の一部を解決できる[1][2]。
『繋年』の文献の性質について、学界では論争が続いており、今なお定説がなく、「繋年」も暫定的な名称に過ぎない。宋鎮豪は楚の史官が作った、重要な出来事を紀年する意義をそなえた歴史書であると考えている。エドワード・ルイス・ショーネシーは、中国古代には主に二種類の紀年形式の史書があり、一つは一国の歴史を編年したもの、もう一つは複数の国を総合し比較した編年体で、『繋年』は後者に含まれると考えている。胡平生は、『繋年』はおそらく一部の関連史料を抜粋したもので、周の史官かその他の紀年のある史官の記録から、楚の史官が楚か、楚と晋に関連する材料を整理・編纂して成立したもので、単独で成った文献ではないと考えている[1]。
2011年12月19日、『繋年』全23章が収録された『清華大学蔵戦国竹簡(貮)』が出版された。
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