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波多野 爽波(はたの そうは、1923年1月21日 - 1991年10月18日)は、東京府出身の俳人。高浜虚子に師事、「ホトトギス」同人、俳誌「青」を創刊・主宰。本名・敬栄(よしひで)。
父・敬三[1]、母・辰子[2]の長男として東京府に生まれる。祖父は元宮内大臣の子爵・波多野敬直[3]。生まれた年に鎌倉の母の実家[4]の別荘で関東大震災に遭い家屋の下敷きとなるも、叔父に庇われて助けられた。なおこの別荘は虛子の次女・星野立子の隣家であり、爽波が助けられる場面に19歳の立子の姿もあったという。1939年、健康を害し鎌倉で療養中に「ホトトギス 」を読みふけり、翌年より同誌に投句をはじめる。1929年。学習院初等科、1935年、学習院中等科、1940年、学習院高等科文科甲類入学。中等科時代は水泳部に属し、その体験が後の「俳句スポーツ説」の基礎となる。高等科入学前、「ホトトギス」1940年1月号で初入選。4月3日には、立子の主宰誌「玉藻」の例会に参加、立子の介添えで虛子に見(まみ)えている。入学後、学校では岩田九郎教授(俳号・水鳥=蕪村研究の泰斗)に指導を仰ぎ「木犀会」を結成、リーダーとなる[5]。同会には2級下の平岡公威(三島由紀夫)も「青城」の号で参加していた[6]。学習院の先輩である京極杞陽からも指導をうけ、1941年からは「木犀会」を杞陽邸で持つなど、大きな影響を受ける。1942年、京都帝国大学経済学部入学、松尾いはほの「蜻蛉会」に参加、長谷川素逝指導の「京大ホトトギス会」に入る。
1943年12月召集を受け、1945年に見習士官として中国北部に赴いた。8月15日の終戦は、迫撃砲部隊の小隊長として、開聞岳の麓で迎えている。陸軍少尉であった。
1946年、5月「京大ホトトギス会」を復活させ、幹事。「玉藻」5月号(戦後復刊1号)で巻頭、10月、「ホトトギス」600号記念大会で披講の大役、創刊間もない松本たかし主宰「笛」11月号で巻頭と、俳句実作に一気に復帰する。1947年、結婚し京都市左京区田中春菜町に新居を構える。同3月、大学卒業、6月に京大ホトトギス会の有志らと「春菜会」を結成、後の「青」創刊の母体となる。三井生命保険を経て、1948年、三和銀行に入行。1949年、最年少で「ホトトギス」同人となる。当時は野見山朱鳥、上野泰とともに若手三羽烏と呼ばれた。1953年10月、「春菜会」をもとに「青」を創刊、主宰。1957年、「かつらぎ」青年大会の来賓講演で「ホトトギス」批判ともとれる発言をし物議をかもす[7]。1958年、「年輪」「菜殻火」「山火」と四誌連合会を発足させ、主導、四誌連合会賞[8]の選者に中村草田男を招聘した。1963年、三和俳句会を再興、またこの頃前衛と目される俳人との交流を深める。1977年、藤沢薬品工業の監査役に転出(1983年退任)。1987年より俳壇賞選者。1991年10月逝去。同年12月号をもって「青」は終刊した。
墓所は京都岩倉の古刹、圓通寺霊所。《夜の湖の暗きを流れ桐一葉》の句碑が遺族によって添えられている。
代表的な句に
など。爽波は虚子の最晩年の直弟子であり、都会的な感覚で「ホトトギス」に新風を吹き込んだ。多作多捨を身上とし、「俳句スポーツ説」を提唱、実作では徹底した写生と題詠を重視した。「青」に依った仲間(途中退会者を含む)には、宇佐美魚目、大峯あきら、吉本伊智朗、柏村貞子、友岡子郷、はりまだいすけ、山本洋子、原田暹、西川章夫ら昭和後期から平成にかけての大切な俳人が多い。また『青』門下には田中裕明、岸本尚毅という、互いに作風の異なる同世代の作者が出ており、いずれも愛弟子として可愛いがった爽波は「尚毅居る裕明も居る大文字」という句も残している。他の門人に島田牙城、岩田由美、森賀まり、中岡毅雄など。
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