松平忠敏 (飯山藩嫡子)
ウィキペディアから
ウィキペディアから
寛文12年(1672年)[1]、飯山藩世嗣松平忠継(藩主松平忠倶の子)の長男として生まれる[1]。
貞享2年(1685年)5月、14歳で将軍徳川綱吉に拝謁した[1]。元禄7年(1694年)1月18日、奥詰[注釈 1]として幕府に出仕したが、10月11日に役を解かれている[1]。
元禄7年(1694年)12月18日、父の忠継は病気を理由として廃嫡された[1]。翌元禄8年(1695年)2月13日に、祖父・忠倶を継ぐべき世嗣(承祖嫡孫)として認められる[1]。しかし、同年12月7日に忠敏は24歳で死去した[1]。
このため、弟の忠喬が藩の世嗣になることになった。しかし、祖父の忠倶は元禄8年(1695年)3月に大坂加番に任じられており、翌元禄9年(1696年)5月に任地大坂で没した。忠喬の将軍への御目見や任官は、家督相続が許可された後に行われることになった。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.