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江戸時代初期の大名。下野榎本藩藩主。本多正信の三男 ウィキペディアから
本多 忠純(ほんだ ただずみ)は、江戸時代前期の大名。本多正信の三男で、下野榎本藩の初代藩主となった。豪勇で知られた人物で、大坂の陣での戦功によって知行は2万8000石まで加増された。官位は従五位下・大隅守。
天正14年(1586年)、遠江国に生まれる[1]。若年時より徳川家康に仕え、従五位下に叙された[1]。
慶長10年(1605年)、下野国榎本(現在の栃木県栃木市大平町榎本周辺)に1万石を与えられて大名に列し[1]、榎本藩を立藩した。
慶長20年/元和元年(1615年)の大坂夏の陣では、天王寺・岡山の戦いに参加[1]。このとき忠純は、岡山に陣した将軍徳川秀忠の陣の先手を前田利常・加藤嘉明・黒田長政らとともに担った[4]。城方の毛利勝永・真田信繁が天王寺口の徳川家康本陣に猛攻を加え、同じく大野治房も岡山の秀忠本陣を攻撃した[4]。岡山口から藤堂高虎・井伊直孝が救援に駆けつけたことで、家康本陣は危急を脱する[4]。『寛政重修諸家譜』によれば、忠純は天王寺口で217の首を挙げる戦功があったという[1][注釈 2]。戦後、下野国皆川周辺で1万8000石を加増され、合計2万8000石となった[1][注釈 3]。
寛永8年(1631年)12月13日、忠純は46歳で死去した[1][注釈 4]。これについては、家臣に殺害されたとの伝承があり(#人物参照)、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は忠純が家臣に殺害された説を採る[7]。忠純は都賀郡水代村の大中寺(榎本大中寺)[注釈 1]に葬られた[1]。忠純の墓は榎本大中寺に現存しており、「本多大隅守忠純の墓」として栃木市指定文化財(考古資料)に指定されている[8]。
実子として忠次がいたが早世しており[9]、婿養子の
忠純は豪勇で鳴らした一方、非常に短気な人物で、家臣のささいな落ち度も許さず、すぐに手討ちにした[10]。このため、江戸から国許への帰途、栗橋(現在の埼玉県久喜市栗橋地区)において突然家臣に刺殺されたのであるという[10]。
『藩翰譜』では、忠純の家が不慮の禍によって絶えたとし、忠純が「みずから郎等を誅せんとして誤ちて死したり」という伝聞情報を記す[11]。
『寛政譜』は2男2女(男子1名は養子)を載せる。( )内は『寛政譜』の記載順。
正室は片桐且元の養女である[1]。忠純正室の実父は片桐貞隆(且元の弟)[2][3]、母は貞隆正室(武田一雲の娘)である[注釈 5][3]。ただし、貞隆の家を継いだのは異母兄の片桐貞昌(片桐石州)であった[3]。忠純正室は伯父にあたる片桐且元に養われ[3][2]、ここから本多家に嫁いでいる[2]。
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