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戸田 勝則(とだ かつのり、天文3年(1534年) - 元和6年6月5日(1620年7月4日))は、戦国時代中期から江戸時代初期にかけての戦国武将。旗本。通称は九右衛門。九平。父は戸田氏一門の戸田光忠で、勝則は次男。兄には戸田忠次がいる。徳川家康に近仕し、武勲著しい。
はじめ、兄の戸田忠次とともに三河国佐々木に住した。永禄6年(1563年)、岡崎に至り、徳川家康に仕えた。翌永禄7年(1564年)、戸田一族が今川氏真の臣で、戸田家の旧領田原を治める朝比奈氏を攻めるため従軍し、活躍した。永禄9年(1566年)、家禄を賜り、兄の忠次の配下として附属した。
天正19年(1591年)5月、相模国高座郡に200石の加増を受け、家康の近習となった。
慶長6年(1601年)9月、近江国野洲、栗太2郡において500石を賜った。元和6年(1620年)6月5日没。享年87。子孫は旗本として存続した。
永禄7年(1564年)、三河国田原城の朝比奈肥後守攻めにおいて、野田村の蔵の陰に潜んだ伏兵に遭遇し奮戦した。この戦いにおいて、敵兵4名を射して、兄の忠次を窮地から救った。さらに、一族の戸田光定が朝比奈三十郎と槍を合わせた際は、これを射して功を挙げた。
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