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戦闘の様子の絵画 ウィキペディアから
戦争画(せんそうが)は、戦争を題材として描かれた戦争記録絵画。ナポレオン戦争など、軍の宣伝や戦意高揚に利用された作品を指すことが多い。戦闘場面や戦士の出征や凱旋、戦時下の市民生活など戦争の諸場面が描かれた
有名なものに「平家物語絵巻」、宮本三郎の「山下・パーシバル両司令官会見図」[1]、ピカソの「ゲルニカ」、戦後のものでは丸木位里・丸木俊の「原爆の図」[2]「沖縄戦の図」など。
田中日佐夫の分類によると戦争画とは、次の4つに分類できるという。
1937年の日中戦争勃発後、1938年4月には「支那事変海軍従軍画家スケッチ展」が開催。同年6月には陸軍省が大日本陸軍従軍画家協会を結成、陸海軍省は戦地へ従軍画家を派遣する。現地部隊とともに行動する従軍画家には鶴田吾郎、小磯良平、藤田嗣治、宮本三郎、中村研一、寺崎広業、小早川秋聲、山田新一ら多くの画家がいた。同年7月「支那事変勃発一周年記念陸軍従軍画家スケッチ展」が開催される。
1939年4月には陸軍美術協会が創立、会長には陸軍大将の松井石根、副会長には藤島武二が就任した[3]。 同年7月には「第一回聖戦美術展」が東京府美術館で開催。主催は朝日新聞と陸軍美術協会、後援は陸軍省であった[4]。この頃には本来、軍とは無縁の二科展でも、戦争や日本占領下の外地を題材とした出品が増えている[5]。
一方、海軍関係では、海軍省や海軍協会の支援を受け、1937年に海事思想普及を目的とした海洋美術会が発足。同年5月には日本橋三越で海洋美術展が開催された[6]。1941年には大日本海洋美術協会に発展した。
民間では、朝日新聞は以下の展覧会でも運営面に深く関わり、画家たちにも支援を惜しまず、戦争美術を牽引する大きな原動力となった。
1940年5月には「紀元二千六百年記念日本文化史展」「紀元二千六百年記念海戦美術展」が開催。同10月「紀元二千六百年奉祝美術展」が開催。
1941年7月には「第二回聖戦美術展」が開催。同年9月、「第一回航空美術展」開催
1942年1月には「大東亜戦争美術展覧会」が開催。同年9月「大東亜共栄圏美術展」が開催。同年12月「大東亜戦争美術展」が開催。
1943年5月には大日本美術報国会が横山大観を会長として創立。同年12月「第二回大東亜戦争美術展」が開催。
1944年10月には「戦時特別美術展」が開催。
1945年4月には「戦争記録画展」が開催。これら作戦記録画を目玉に据える各種戦争美術展の入場者数は、太平洋戦争下の最盛期において官展の10倍に達したとも言われる。
戦後、1945年10月4日に大日本美術報国会が解散[7]。1946年にはGHQが軍国主義を象徴するものとして153点の「戦争記録画」が接収されアメリカに運ばれたが、1970年に日本に無期限貸与という形で返還され、現在東京国立近代美術館に保管されている[8][9] これまで部分的には公開されたことがあり、近代美術館の所蔵作品展に毎回数点展示される。また接収されなかった作品は、各地の美術館[10]や個人が所蔵している。
会田誠がこれらの作品から触発された「戦争画 RETURNS」という作品シリーズを発表している。
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