張耀
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張 耀(ちょう よう、503年 - 565年)は、中国の北魏末から北斉にかけての官僚。名は曜とも書かれる[1]。字は霊光。本貫は上谷郡昌平県[2][1]。
晋州長史の張鳳の子として生まれた。給事中を初任とし、司徒水曹行参軍に転じた。普泰元年(531年)、高歓が信都で起兵すると、張耀は中軍大都督の韓軌の下で府長史をつとめた。韓軌が瀛冀二州刺史に任ぜられると、張耀は韓軌の下で諮議参軍となった。後に御史による弾劾を受け、州府の同僚や韓軌の側近たち100人あまりが収賄の罪で検挙されたが、張耀ひとりが無罪で赦免された。丞相府倉曹として召された[2][1]。
武定7年(549年)、高洋が高澄の後を嗣ぐと、張耀は相府掾に転じた。天保元年(550年)、文宣帝(高洋)が即位すると、張耀は都亭郷男の爵位を受け、摂倉庫二曹事をつとめた。秘書丞に転じ、尚書右丞となった。あるとき文宣帝が外出して、張耀が留守をつとめたことがあった。文宣帝が夜中に帰ってきたが、張耀は門を開かず、兵士に厳重に警備させていた。文宣帝は門の外で長らくうろうろしていたが、しびれを切らしてせきたてた。張耀は火をもって顔を確認すると門を開き、ひとり進み出て文宣帝と面会した。文宣帝は「卿は郅君章に学んでほしいものだ」と笑って言った。文宣帝は張耀の後について門から入ると、張耀に褒美を与えた。張耀は南青州刺史となったが、赴任しなかった。乾明元年(560年)、高演が丞相となると、張耀は秘書監に累進した[3][1]。
張耀は北斉の歴代に仕えて、謹直につとめあげ、過ちがなかった。俸禄は一族に分け与えて、自身は質素な生活を送った。『春秋』を読むのを好み、『春秋左氏伝』を研鑽して、賈梁道にたとえられた。天統元年(565年)、武成帝の朝議の場で、張耀が上奏したとき、突然の発作を起こして御前に倒れこんだ。武成帝が座を下りて張耀に呼びかけたが、答えはなかった。武成帝は「我が良臣を失うのか」と泣いて言った。10日ほどして死去した。享年は63。開府儀同三司・尚書右僕射・燕州刺史の位を追贈された。諡は貞簡といった[4][5]。
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