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清末民初の軍人・外交官 ウィキペディアから
廕昌(いんしょう)は、清末民初の軍人・外交官。字は午楼、五楼。満州正白旗人。清の最末期に陸軍大臣をつとめた人物である。また、北京政府でも参謀総長となった。
当初は国子監の学生であった。1872年(同治11年)、北京同文館に設けられた徳文館に入学する。1877年(光緒3年)4月、ベルリンの公使館で三等翻訳官をつとめる。1884年(光緒10年)、ドイツの軍事学校に入学して軍事技術を習得した。同年12月、清朝に派遣されていたドイツ将官の翻訳(通訳のこと)に任命された[1][2]。
翌年6月、廕昌は天津武備学堂翻訳に任命され、後に武備学堂監督、幇弁、総弁と昇進した。1899年(光緒25年)冬、ドイツとの山東省における鉄道・鉱山の交渉を担当し、山東路鉱章程に調印した。1900年(光緒26年)3月、山東佐賛軍務に異動する。翌年3月には、正白旗漢軍副都統に任じられた[1][2]。
同年7月、廕昌は駐ドイツ欽差大臣(駐ドイツ公使に相当)に任じられた。8月には駐オランダ欽差大臣(駐オランダ公使に相当)も兼ねている。1905年(光緒31年)に帰国して、陸軍部右侍郎に任じられ、江北提督も兼ねた。また、貴冑学堂総弁にも任ぜられている。1908年(光緒34年)9月、駐ドイツ欽差大臣に再任されている。1910年(宣統2年)3月、陸軍部尚書に任じられたため、帰国した[1][3]。
同年9月、廕昌は訓練近畿陸軍各鎮大臣を兼任し、12月には陸軍大臣に任命された。翌1911年(宣統3年)5月には、慶親王奕劻の内閣で陸軍大臣に任じられ、7月、弼徳院顧問大臣も兼ねている。辛亥革命が勃発すると、廕昌は革命派の鎮圧を図った。しかし袁世凱が内閣を組織すると、その政敵であった廕昌は辞任に追い込まれた[1][4]。
中華民国が成立すると、廕昌は北京政府外交部の高等外交顧問として招聘された[1]。1912年(民国元年)12月25日、陸軍上将位を授与され[5]、さらに総統府軍事処処長となる[1]。1914年(民国3年)5月9日、総統府侍従武官長兼陸海軍大元帥統率弁事処弁事員に任ぜられ[6]、同月26日、参政院参政も兼任している[7]。1917年(民国6年)12月1日、廕昌は王士珍の後任として参謀総長に任命された[8]。1919年(民国8年)1月11日には、中華民国大総統・徐世昌から衛侍武官長に任ぜられている[9]。1923年(民国12年)10月14日、荘威上将軍位を授与された[10]。1928年(民国17年)、病没[1][4]。享年70。
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