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宮古島旧記(みやこじまきゅうき)とは沖縄県宮古島の写本類の総称。宮古島旧記類(みやこじまきゅうきるい)、宮古島旧史(みやこじまきゅうし)などとも呼ばれる。
「御嶽由来記」(宮古島由来記とも、1705年~1707年)、「雍正旧記」(1727年)、「宮古島記事仕次」(1748年)、「宮古島記事」(乾隆旧記とも、1752年)「宮古島在番記」(1780年以降)からなる。これらは元々琉球王国の役人が作成した、宮古島に関する報告書を写したものである。[1]宮古島の地理や風俗風習、税収や統治に関する事柄の他、御嶽について記した「御嶽由来記」収録の創世神話などを中心に宮古島の神話や民話が多数収録されている。
御嶽由来記(うたきゆらいき)は、初めて報告された旧記である。内容は次のごとくなる。 末尾から、1705(康煕44)年、1706(45)年、1707(46)年の三回にわたって報告されていることが知られる。[2]
雍正旧記(ようぜいきゅうき)は、当時の30か村あまりについて村ごとに、番所の位置、井川とその掘年数、城跡と歴史、御嶽・祭祀を記す。写本には在仲宗根家本と多良間本があるが、多良間本は虫損が甚だしく後記を欠く[3]。
9つの史詩が記載されている[4]。
宮古島記事(みやこじまきじ)または乾隆旧記(けんりゅうきゅうき)は与那覇目差の平良仁屋、川満目差の荷川取仁屋、嘉手苅与人、新城与人、松原首里大屋子の五人を取締役として、当時の三人の頭、在番筆者平良筑親雲上、平敷筑親雲上の名による、1752(乾隆17)年までの報告書である。伊良部島・来間島・多良間島をはじめとした政治的な周辺部に関する記事、珍事、良妻、忠僕、孝子などに関する記事が多いことから、編纂を命じた訓令はそれ以前のものと異なると推定される。写本は仲宗根家蔵本が孤本である[5]。
宮古島記事仕次(みやこじまきじしつぎ)は、1748(乾隆戌辰)年成立。ほかの宮古島旧記とは異なり、琉球王国の訓令ではなく、序に「忠導氏のおやけ家の大主」とよばれる友利首里大屋子がまとめた宮古の故事を、在番筆者明友人長良がまとめたものである。文体は軍記調で格調高い。題目はこれを基点として後世の者が書き継ぐことを期待してつけられたとされる[6]。
宮古島在番記(みやこじまざいばんき)は、白川氏上地与人恵賛が先例として活用するために編纂したとされる旧記で、序文は1780(乾隆45)年序であるが、1894(明治27)年まで書き継がれた。写本は島尻家蔵が孤本であり、蔵元から当時の沖縄県宮古島庁(のちの宮古支庁)に引継がれたが、第二次世界大戦で所在不明となった。蔵元最後の筆者であり、明治30年代に宮古島庁に勤務し、大正期には平良村長を勤めた本村朝亮の写と推定されることのある[7]写本2部(炭酸紙)が伝存する[8]。
明治以降には合本として写本が製作された(田島利郎写本、大浦与人蔵本の筆写)他、慶世村恒任らにより通史として編集されたものもある。 琉球文学大系に収録される。
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