定宗(ていそう、チョンジョン、1357年7月18日 - 1419年10月15日)は、李氏朝鮮の第2代国王(在位:1398年 - 1400年)、権知高麗国事。諱は当初芳果(ほうか、パングァ、방과)、改名して曔(けい、キョン、경)、字は光遠(こうえん、クァンウォン、광원)。世子になる前は永安君(ヨンアングン、えいあんくん)。
恭愍王7年(1357年)7月1日に太祖(李成桂)と神懿王后の間の次男として生まれた。性格が穏やかで勇猛で知略が優れ、高麗末期、父に就いて多くの戦いに参加し多くの功績を立てた。父の李成桂が朝鮮を建国すると、李芳果は永安君に冊封されたが、太祖7年(1398年)8月に太祖の五男の靖安君李芳遠の起こした第一次王子の乱の後、王世子に冊封された。本来王位につく意志がなかった芳果は、王世子になるのを言葉を尽くして辞退したが、太祖の長男の鎮安君李芳雨は既に亡くなっていたうえ、その頃、国の権力を掌握していた李芳遠の強要で仕方なく王世子となり、1カ月後の同年9月、太祖の譲位で朝鮮国王となった。側室との間に多くの庶子を儲けていたが、王妃金氏との嫡男が無いことは、李芳遠にとってとても好都合であった。定宗は2年の在位期間、李芳遠の影響力下にあった。李芳遠の意向によって権力者たちの私兵を解体し、軍事権を国家の最高軍事機関である義興三軍府に集中させた。
定宗は漢陽の運気が悪くて王子の乱が起きたという理由を聞いて、首都を漢陽から再び開京へ遷都した。しかし、1400年に第二次王子の乱が起きると、李芳遠を王世弟に冊封し、9カ月後の11月13日に王世弟に王位を譲り、上王に退いた。定宗としては権力の中心である王位から退くことだけが、命を維持することができる唯一の道だったからである。上王に退いた定宗は仁徳宮で撃毬・狩猟・温泉・宴会などの娯楽で悠悠自適な生活を送り、世宗元年(1419年)9月26日に 63歳で薨去した。御陵は開城にある厚陵。
2年の間の短い治世にほとんど実権がなかったことから、朝鮮では定宗を過渡期執権者と考え「恭靖大王」と呼んだが、262年が過ぎた粛宗7年(1681年)12月に至り、定宗という廟号を贈った。
- 祖父:李子春/桓祖(1315年 - 1361年)
- 祖母:懿恵王后崔氏(生没年不詳)
- 父:李成桂/太祖(1335年 - 1408年)
- 母:神懿王后韓氏(1337年 - 1391年)
- 兄:鎮安大君 李芳雨(1354年 - 1394年)
- 弟:益安大君 李芳毅(生年不詳 - 1404年)
- 弟:懐安大君 李芳幹(1364年 - 1421年)
- 弟:靖安大君/太宗 李芳遠(1367年 - 1422年)- 第3代国王
- 弟:徳安大君 李芳衍(朝鮮語版)(生没年不詳)
- 妹:慶慎公主(朝鮮語版)(生年不詳 - 1426年)
- 妹:慶善公主(朝鮮語版)(生没年不詳)
宗室
- 正室:定安王后金氏(1355年 - 1412年)- 月城府院君 金天瑞の娘
- 後宮:誠嬪池氏(朝鮮語版)(生没年不詳)- 池奫(朝鮮語版)の娘
- 義平君 李元生(朝鮮語版)(生年不詳 - 1461年)
- 宣城君 李茂生(朝鮮語版)(生没年不詳)
- 徳泉君 李厚生(朝鮮語版)(1397年 - 1465年)
- 任城郡 李好生(朝鮮語版)(生没年不詳)
- 桃平君 李末生(朝鮮語版)(生没年不詳)
- 咸陽翁主(朝鮮語版)(生没年不詳)- 密寧尉 朴賡正室
- 後宮:淑儀奇氏(朝鮮語版)(生年不詳 - 1457年)- 貞武公 奇虔の姉妹
- 順平君 李羣生(朝鮮語版)(生年不詳 - 1456年[1])
- 錦平君 李義生(朝鮮語版)(生年不詳 - 1435年)
- 貞石君 李隆生(朝鮮語版)(生没年不詳)
- 茂林君 李善生(朝鮮語版)(1410年 - 1475年)
- 淑慎翁主(朝鮮語版)(生没年不詳)- 判敦寧 金世敏正室
- 徳川翁主(朝鮮語版)(生没年不詳)- 辺尚服(朝鮮語版)正室
- 高城翁主(朝鮮語版)(生没年不詳)- 金澣正室
- 祥原翁主(朝鮮語版)(生没年不詳)- 司直 趙孝山正室
- 全山翁主(朝鮮語版)(生没年不詳)- 行司直 李希宗正室
- 後宮:淑儀文氏(生没年不詳)
- 従義君 李貴生(朝鮮語版)(1393年 - 1451年)
- 後宮:淑儀尹氏(朝鮮語版)(1368年 - 没年不詳)- 大司憲 尹邦彦の娘
- 守道君 李徳生(朝鮮語版)(生年不詳 - 1449年)
- 林堰君 李禄生(朝鮮語版)(生年不明 - 1450年[2])
- 石保君 李福生(朝鮮語版)(生没年不詳)
- 長川君 李普生(朝鮮語版)(生没年不詳)
- 仁川翁主(朝鮮語版)(生没年不詳)- 行府使 李寛植正室
- 咸安翁主(朝鮮語版)(生没年不詳)- 李恒信正室
- 後宮:嘉懿宮主/嘉懿翁主柳氏(生没年不詳)
- 仏奴(生没年不詳) - 一時期元子とされた[3]がその後政争に巻き込まれた定宗が生命を助けるために親子関係を否定[4]、1409年に公州に流刑となった[5]。
- 後宮:其毎(生没年不詳)- 上王宮に仕える奴婢。定宗の寵愛を受けて子を産んだが1417年宦官との姦淫が発覚し追放、定宗の子を産んでいるという理由で死罪は免れた[6]。
- 志云(生没年不詳)- 母親が他の男と姦淫の末追放されたため定宗に親子関係を否定されている[7]。
- 後宮:楚宮粧(朝鮮語版)(生没年不詳)- 妓生。世子(後の譲寧大君)が定宗の愛妾と知らずに自分の妾にしようとし、これを知った定宗に追放された[8]。
「順平君 羣生卒, 賜賻米豆幷三十石, 紙一百卷, 油芚十部. 羣生, 恭靖大王後宮出也. 諡曰安簡, 好和不爭安, 平易不懈簡.」朝鮮王朝実録 世祖実録5巻、世祖2年8月21日 戊午2回目
「林偃正 祿生卒, 停朝市, 致弔, 致賻, 致奠.」朝鮮王朝実録 文宗実録3巻、文宗即位年8月6日
「己卯/納柳氏于後宮. 柳氏, 上潛邸時妾, 大司憲趙璞族妹也. 嘗適人有子, 名佛奴, 居竹州. 至是, 璞啓于上, 迎柳氏及子, 置于其家, 裝備入内, 封爲嘉懿翁主, 稱其子曰元子.」朝鮮王朝実録 太祖実録15巻、太祖7年11月7日 己卯1回目
「命置佛奴于公州. 仁德殿宮人嘉懿宮主 柳氏, 嘗適人有子, 名曰佛奴. 佛奴自謂上王之子, 上王誓以爲非己子, 命參贊議政府事李至爲委官, 同臺諫刑曹坐巡禁司雜治之.」朝鮮王朝実録 太宗実録18巻、太宗9年10月27日 乙丑3回目
「辛卯/斬宦者鄭思澄. 思澄自高麗 恭讓時, 有言其不類宦者, 又通懷安大君妾. 及事仁德宮, 淫于侍女其每, 其每上王本宮婢也. 上王知之, 黜其每, 思澄逃, 至是被執, 乃誅之. 義禁府提調請幷斬其每, 上曰, 其每於上王, 有身生子, 不忍也, 提調等請曰, 其每既得罪見黜、上王何惜哉? 上然之, 將斬, 竟以上王之命不果斬.」朝鮮王朝実録 太宗実録34巻、太宗17年8月8日 辛卯1回目
「珍城縣監李胖執僧志云以來, 命下義禁府. 志云者, 恭靖王侍婢其每子也. 其每頗淫奔, 王往往杖之. 遂生志云, 王覺其非子, 故不齒於諸子之列久矣.」
「黜妓楚宮粧. 世子私近上妓楚宮粧, 上知而逐之. 上王曾御此妓, 世子不知而私之. 」朝鮮王朝実録 太宗実録29巻、太宗15年5月13日 己酉4回目