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大河平氏庶流・大河平隆堅の子として誕生。大河平氏は、元は日向国の北原氏の家臣であったが、北原氏は日向伊東氏に領地を簒奪され、また大河平氏も、永禄7年(1564年)に居城の今城を伊東氏に攻撃され、城兵全員が討ち死にし断絶となった[1]。隆重は落城のとき6歳で、そのまま伊東氏により捕らわれの身となったが、8歳になったときに島津義弘が送り込んだ商人[2]により救い出された。隆重は成長すると、そのまま義弘の家臣となった。
文禄元年(1592年)、文禄の役に参加する義弘に従い朝鮮へ渡海、南原城の戦いや泗川の戦いで武功を上げた。しかし慶長3年(1598年)、露梁海戦の折に敵船に飛び移って戦い、討ち死にを遂げた。
『本藩人物誌』は享年を35とする。それを信じれば永禄7年(1564年)生まれとなるが、一方で前述の通り永禄7年の時点で6歳ともしており、その場合は永禄2年(1559年)生まれとなるため矛盾が生じる。
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