江戸時代の土佐藩の医学者 ウィキペディアから
千屋 熊太郎(ちや くまたろう、1844年12月27日〈天保15年11月18日〉[1] - 1864年10月5日〈元治元年9月5日〉)は、江戸時代の土佐藩の医学者。尊皇攘夷運動家。本姓は菅原氏。名は孝樹[2]。
土佐国安芸郡和食村(現・高知県安芸郡芸西村和食)の庄屋・千屋清助の子として生まれる。千屋菊次郎・千屋金策は従兄に当たる[2]。
万延元年(1860年)大坂へ上り、緒方郁蔵(研堂)に医学を学び、文久2年(1862年)故郷に帰国してから開業を果たす[2]。
元治元年(1864年)、土佐勤王党の党首武市瑞山の投獄を期に、武市の釈放を求めた清岡治之助・清岡道之助を中心とした野根山の集まりに参加し、土佐藩に捕縛される。同年9月5日、奈半利川の岸にて斬首された(野根山二十三士の殉難)。享年21歳。
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