倭文神社 (伊勢崎市)
群馬県伊勢崎市にある神社 ウィキペディアから
群馬県伊勢崎市にある神社 ウィキペディアから
倭文神社(しどりじんじゃ)は、群馬県伊勢崎市東上之宮町にある神社。式内社、上野国九宮。旧社格は郷社。
主祭神
配祀神
社伝では第11代垂仁天皇3年の創建というが、詳らかではない[2]。
「しどり」とは「しずおり」の略で、天羽槌雄命は平絹を織る部民・倭文部(しどりべ)の氏神である[3]。これより、倭文部が当地に移住して天羽槌雄命を祀ったとする説がある[4]。また、『和名抄』には「那波郡委文郷」が見えるが、これを当地に見る説もある[4]。
鎮座地の地名「上之宮」は当社に由来するとされ[5]、利根川を挟んで「下之宮」の火雷神社と対峙するが、中世の利根川変流まで両社は地続きであったという[6]。
国史の初見は、『日本三代実録』貞観元年(859年)の「正六位上委文神」を官社に列すという記事で[7]、同年に神階は従五位下に昇叙された[8]。
『延喜式』神名帳では上野国那波郡に「倭文神社」と記載され、式内社に列している。この「佐位郡」は、佐波郡(明治に那波郡・佐位郡を合併)の前身にあたる。
長元3年(1030年)の『上野国交替実録帳』には「正三位委文明神社」と記されるとともに「向殿壱宇、間垣壱廻、鳥居壱基」と記載がある[3]。また『上野国神名帳』では、総社本では鎮守10社の9番目、一宮本では鎮守12社の11番目に「従一位倭文大明神」と記載されている[3]。
南北朝時代成立の『神道集』では「九宮ヲハ那波ノ下ノ宮ニ、少智ノ大明神ト申ス」と記載があることから、当社は上野国の九宮であったと見られている(「下ノ宮」は誤記と見られる)[3]。また同集によると、当社の本地仏は如意輪観音であった[3]。
当社には祀官に真下氏がいたが、戦国時代の兵火で社殿は焼失、社家も離散したという[3]。その後江戸時代に入り、寛永年間(1624年-1644年)に慈眼寺が別当となり、慶安元年(1648年)に朱印地10石が与えられた[4]。社殿は享保12年(1727年)に再興されたが、慶応2年(1866年)に焼失した[4]。
明治維新後、近代社格制度において郷社に列した[2]。また、大正14年(1925年)に神饌幣帛料供進神社に指定された[2]。
上記のように、1月14日には田遊び(たあそび)として、田植えの予祝祭事が行われる[10]。祭事では、祭員はまず笹竹を振りご神歌を唱えながら、鳥居と拝殿の間を3往復する[10]。その後町内を巡り、神社に戻るともう一度鳥居前と拝殿の間を同様に3往復する[10]。この祭事では田植えの模擬所作こそ伴わないものの、そのご神歌は中世にまで遡るとされる[10]。この祭事は「倭文神社の田遊び」として、市の重要無形民俗文化財に指定されている[10]。ご神歌は次の通り[2]。
「 | 御神歌 エートウ、エートウ まえだの鷲(さぎ)が御代田(おしろだ)にぎろり きろぎろめくのは なんだんぼ 一本植えれば千本になる とうとうぼうしの種 エートウ、エートウ 乾(いぬい)のすまの掃部(かもん)の長者 つじゅう十石ざらり ざらざらめくのは なんだんぼ 一本植えれば千本になる とうとうぼうしの種 |
」 |
所在地
周辺
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.