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ヴァレンティーノ・マッツォーラ(Valentino Mazzola、1919年1月26日 - 1949年5月4日)は、イタリアのサッカー選手である。イタリアサッカー史上最高の選手の一人と評価される[1]。
1940年代に圧倒的な強さを誇り "Grande Torino" (偉大なるトリノ)と呼ばれたACトリノ(現トリノFC)で主将を務めた。その絶頂期に「スペルガの悲劇」と呼ばれる飛行機事故によって命を落とした。
1919年1月26日、ミラノ県カッサーノ・ダッダ生まれ。10歳の頃に父親を亡くし、生活のため若くして働いた[1]。また、幼少期は地元のチームであるトレソルディに所属していた。
プロとしての彼のキャリアは当時セリエCに所属していたミラノにある自動車メーカー、アルファロメオミラノ工場のクラブで始まった。1939年にイタリア海軍に徴集されてヴェネツィアに赴いた。その間にセリエAに昇格したばかりのヴェネツィアACの選抜試験を受けて合格した。その後1939年から1942年までヴェネツィアでプレーし中心選手として活躍した。1940年に加わったエツィオ・ロイクと強力なデュオを組み、1941年にはコッパ・イタリアで優勝、1942年には昇格後わずか4年目でリーグ3位に導いた。また、1942年4月5日のクロアチア代表戦でイタリア代表デビューした。
この年、マッツォーラは2名の選手プラス20万リラという破格のトレード条件でACトリノに引き抜かれた。9月20日のコッパ・イタリア、USアンコーナ1905戦ではマッツォーラの2得点を含めた7-0の大勝でデビュー戦を飾った。
この後イタリア・リーグは第二次世界大戦の影響により断続的に中断したが、1943年から1948年にかけてACトリノはリーグ4連覇を達成。マッツォーラはこの傑出した攻撃力を備えたチームのキャプテンとして活躍した。1946-47シーズンはキャリアハイとなるリーグ29得点を記録して得点王に輝き、1947年4月のヴィチェンツァ・カルチョ戦では、リーグ記録である2分でハットトリックを達成した[2]。
1948年から始まったシーズンもACトリノは好調を維持し、5連覇目前となった1949年5月4日。ポルトガルにて友人でもあったフランシスコ・フェレイラとの親善試合を終えた後の帰路の途中、悪天候により乗っていた飛行機がトリノ郊外に墜落[1]。マッツォーラは一緒に飛行機に乗っていたACトリノの仲間たちと共に、あまりにも悲劇的にその生涯を終えた。30歳没。
マッツォーラには2人の息子がいたが、長男のアレッサンドロは、のちにイタリアを代表する名フォワード「サンドロ・マッツォーラ」としてインテル、イタリア代表で活躍。4度のセリエA優勝、2度のチャンピオンズカップ制覇など、かつての父同様輝かしい実績を残した。
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