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マリー=テレーズ・ド・ブルボン(Marie-Thérèse de Bourbon, 1666年2月1日 - 1732年1月22日)は、ブルボン朝フランス王家の一員。コンデ公ルイ2世(大コンデ)の孫娘で、コンティ公フランソワ・ルイ(大コンティ)の妻である。娘時代はブルボン姫(Mademoiselle de Bourbon)の儀礼称号で呼ばれたが、結婚後はコンティ公妃(Princesse de Conti)と称された。
コンデ公アンリ3世ジュールとその妻でプファルツ=ジンメルン公エドゥアルトの娘であるアンヌ・ド・バヴィエールの間の第1子、長女としてパリのオテル・ド・コンデ(現在のオデオン座劇場)で生まれた。洗礼名はルイ14世の王妃マリー=テレーズ・ドートリッシュに因んで付けられた。
最初、遠縁で40歳近く年上のカリニャーノ公エマヌエーレ・フィリベルトとの縁談があったが、カリニャーノ公がブルボン姫との結婚を通じて、本家筋のサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ2世から家督を奪う野心があると察知したルイ14世が破談にした。
1688年1月22日にヴェルサイユ宮殿の付属礼拝堂において、従叔父に当たるコンティ公フランソワ・ルイと結婚した。マリー=テレーズは夫を熱愛したが、コンティ公の関心は家庭外にあった。コンティ公はマリー=テレーズの弟コンデ公ルイ3世の妻であるルイーズ・フランソワーズ(ナント姫)に手を出したほか、男色趣味の持ち主でもあり[1]、妻にさしたる興味を感じなかった。夫はスイスのヌーシャテル公領の相続請求を行ったり、1697年にはポーランドの国王選挙に出馬して王冠の獲得を狙うなどしたが、いずれも失敗に終わった。
夫や子供達と幸福な家庭生活を築けなかったマリー=テレーズは、持ち城の1つリスル=アダンの城館で孤独に暮らした。物静かで信心深く、妹のメーヌ公ルイ・オーギュスト夫人ルイーズ・ベネディクトのように政治的な野心も持たないコンティ公妃は、ヴェルサイユの宮廷人たちから慕われていた。母方の従叔母にあたるオルレアン公フィリップ1世夫人エリザベート・シャルロットは、マリー=テレーズについて次のような人物評を残している。
公妃はコンデ親王家の一族の中では唯一気立ての良い人である。きっとドイツ人の血が流れているので、ドイツ人気質を受け継いだのだろう。小柄で、左右の足の長さがやや違うようだが、びっこではない。父親譲りの美しい目の持ち主である。目以外は取り立てて美しいわけではないが、諸芸に通じていて敬虔な人柄である。彼女が夫に苦しめられている様は誰しも同情を禁じ得ない[2]。
1706年に夫と死別した後、マリー=テレーズはコンティ親王家の持ち城の大規模な改修工事に乗り出し、手始めにセーヌ川左岸のオテル・ド・コンティ(Hôtel de Conti)[3]に、次にその近くに建つオテル・ド・セニュレ(Hôtel de Seignelay)[4]に手を入れた。公妃はこの改装工事を宮廷の首席建築家だったロベール・ド・コットに依頼した。1732年、オテル・ド・コンティで世を去った。
夫との間に7人の子女をもうけた。
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