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マドリード列車爆破テロ事件(マドリードれっしゃばくはテロじけん、Atentados del 11 de marzo de 2004)は、2004年3月11日にスペインの首都マドリードで発生した爆弾テロ。193人が死亡、2,000人以上が負傷した。
2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件と並び、日付から「3・11事件」と、さらにスペインでは「11-M」(オンセ・デ・エメ、Mは同国語で3月を意味するmarzoから取られている)と呼称されることがある。
このテロは、国内では、最悪の死者数で、欧州では、パンアメリカン航空103便爆破事件の270名の死者の次に多い数となった。その後のスペインの国政や社会に多大な影響を与えた。
2004年の3月11日(木)の早朝、マドリード州東にあるアルカラ・デ・エナーレス発で、マドリード市へ北東から南まわりでアトーチャ駅に至る、近郊鉄道線(セルカニアス)で、4便の複数の車両に爆発物が仕掛けられており、朝7時36分からの7時39分の間に連続して10回の爆発が発生した。また、約3週間後、マドリード市の南南西に位置するレガネス市のある住宅にて、実行犯と思われるモロッコ系の人物7人が、警察に囲まれたため自爆した。また、列車爆破の11日の3日後の14日には、国政選挙が控えており、それまでの数日間の間に投票意思を左右する動きがあり、選挙結果が事前予想とは異なり、逆転することになった。実行犯が自爆したことで、謎の多い事件となり、政争も絡まって後々まで議論が残った。
2001年9月11日、アルカーイダによるアメリカ同時多発テロ事件が発生した。2003年3月16日に、ポルトガル領のアゾレス島にて、「アゾレス首脳会談」が開かれ、米(ジョージ・W・ブッシュ大統領)、英(トニー・ブレア首相)、西(ホセ・マリア・アスナール首相)・ポルトガル(ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ首相)の4首脳が、イラクのサッダーム・フセインが、アル・カイーダを支援していたとして、フセインへの最終通告を出す決定をした[2]。
これが、イラク戦争の始まりとなり、3月20日には、対テロ戦争として、その政権打倒目的の米英の作戦が始まった。国連の安全保障委員会では、5月と10月に1483と1511決議が行われ、イラクへの援助、多国家軍の滞在が承認された[3]。
スペインの国民党アスナール政権では、4月9日に南部のUm Qasar地方への人道支援目的の派兵を行い、陸軍の医療部隊を乗せた艦船を派遣した。また、総じて食料14トン、水4万6千リットルや必需品を運搬・支給した。また、現地での道路・学校・水道施設の改修も行った。また8月には、An Najaf, Al Qaisiya 地方へ任地が変わり、現地の安全確保・再建の目的で、南米5か国の兵士との合同部隊が派遣された。これらは、1300人規模で2交代で、2004年5月末まで、延べ2600人が派遣された[4]。アナ・パラシオ外務大臣は、「l国連の採決に基づき、スペイン軍は、イラクにおける安定と安全に協力する呼びかけに応じている。[5]」と語っている。
このような米英西のイラク攻勢は、諸国における反発を起こし、派兵前の2003年2月25日には、主要国で同時デモ行動が行われた。スペインでは、政府公表で、マドリード56万人、バルセロナで25万人の人々がデモに参加したとされている[6]。反対運動は、主に、左翼系、反米の民間団体がベースとなっており、「戦争に、No」という標語のもと、とくに戦争の支持国内で高まり、スペインでは、市民の大半が戦争反対というムードになっていた。その理由は、「米国の背後の動機は、石油産業がイラクの石油を支配したいから」、というもの、また、スペインの場合は「例え人道的な派兵であっても、イスラム側に誤解される」というものであった。戦争が始まっても、その反対運動は続いてはいたが、徐々に沈静化していった。
その後の10月には、マドリードで、35か国を招いたイラクへの「寄付者のコンフェレンス」が行われたことで、再び、デモが行われたが、より小規模なものになった[7][8]。
スペインでは、1980、90年代から様々なイスラム系のグループが定着しはじめ、イスラム系移民の間で、新しいメンバーを獲得して行った。アメリカ同時多発テロ事件より、スペインへの権益にも影響が出始め、特に、アルジェリア人、シリア人の流れのグループの行動が見られた。たびたび、逮捕が行われていた[9][10]。
国内のバスク地方をベースとするテロ組織、ETA(バスク祖国と自由) は、スペイン各地で、1959年から2011年までの約50年間で、約3500件のテロ事件を起こし、853人の死者、7千人以上の負傷者をだした[18]。当時のアスナール首相は、首相候補であった1995年時には、当人も車爆弾を仕掛けられて、辛うじて逃れていた[19]。彼は、ETAに対して積極的な対策を行っており、この為、2001年の米国貿易センターの事件でも、国際テロに対する積極的姿勢を示した。ETAは、2003年時前後にも、マドリード市民をテロ対象とした、以下のようないくつかのテロ行動をとっていたが、事前に防止されていた[20]。この為、奇しくも、直前の日付けて、同じルートを辿ったETAによる爆破未遂事件があり、3月11日のテロも「ETAの犯行」と誤解を引き起こす原因となった。
2004年の3月11日木曜日早朝、マドリード市からは、北東に位置するアルカラ・デ・エナーレス市から連続して出発した4便の列車で爆発が発生した。これらは、それぞれ異なった最終目的地であったが、南回りで、市の南側の中心駅であるアトーチャ駅を経由する便であった。いずれも6両編成で、通勤・通学の時間帯で、途中駅からの乗客も載せてかなり混んでいた。4便の列車は、爆発時系列で次のようである[23]。
車両は、爆発の威力で、屋根や壁が打ち破られる状況であった。爆発物は、上記の順に、4、4、1、4の計13個が置かれたとみられる。これらは、10個爆発し[24]、2個は不発で後に爆破処理され、別の1個は不発で、後に発見された。この13番目は、上記の列車、2の遺留品の中から、手提げ型のスポーツが派出所で発見されており、これが、捜査の手がかりとなった。一方、後に、これに関する疑惑も生じることになった(後述)。破壊された車両の多くは、72時間後には処分に回されており[25]、その後、爆発物の検証には使われておらず、これも、後で問題になった。
それから約3週間後の4月2日午前中、マドリード・セビリア間の高速鉄道(AVE)の線路上でプラスチックの袋に入れられた爆発物が、トレドから20キロメートルの地点、マドリードからは61キロメートルの地点で、巡回していた国鉄職員によって発見された。この時点では、事件の犯人はまだ逮捕されていなかったことで、何らかの行動が継続される可能性かあった。この為、重要インフラである線路は、念入りなチェックが行われていた。この日は、朝7時半に、警備隊がチェックをしたが、何もなかったので、これは、午前中のその後の時間に、置かれたものと見られた。これは、爆発処理班によって、午後2時過ぎに制御された。この爆発物は、12キログラムの「Goma-2 ECO」(ゴマ・ドス・エコ)で、136メートルの電気ケーブルが付いていたが、起爆装置は付けられていなかった。そのため、犯人らは、列車の通過に合わせて、手動で起爆させる算段であったが、急いで逃走したもの、と考えられた。政府では、これは、3月11日に使われたものと同じ爆発物であるとみなした[26][27]。
翌日の4月3日午後に、マドリード市の南南西に位置するレガネス市北部で、ある住宅ブロック内の1軒に、テロ実行犯が集まっていたところを、警察が探知した。これは、サルサケマド区のカルメン・マリティン・ガイテ通りの建物の地上2階部分にあった[28]。この場所が、どのように特定されたかについては、3つの説があり、警察の中でも、これは断定されていない。その1つは、爆発物の袋の中にあった携帯電話前払いカードを追跡した結果であるという。複数の私服警察官が、このブロックの敷地内に潜んでいたが、犯人の1人が、ゴミ出しに中庭に現れた時、私服警官が、郵便受けを覗いていたことで、警察官と気が付き、仲間に大声で知らせながら、2メートルの塀を超えて逃走した。この為、内部にいた者達は、警察が包囲していることを知ったことで、立て籠もる状況に追い込まれた。このため、この夕刻、18から20時までの間に、警察の特別機動隊は、投降説得をする一方、突入準備をしていた。この間、中からは、内部から発砲があったり、叫び声やコーランの唱和の声が聞こえた。やがて、機動隊は、入り口のドアを小爆破で開錠し、投降を呼びかけつつ、催涙弾を内部に発射した[29]。
追い詰められた実行犯らは、21:03に自爆を決行し、建物は大破した。その為、内部にいた実行犯7人と、機動隊員1人が死亡(大腿部の血管損傷による出血)、他に11人が負傷(4人重傷、1人は右足切断)した[30]。20世帯の住民は、事前に避難していたが、建物は、主に地上2階部分が空洞になり、床に10メートルの穴が開いた。これは、15から20キログラムの爆発物2個が爆発したものと考えられた。爆発により、人体は判別が難しい状態になっており、中庭にあるプールの中などで発見されたものでは5人分で、13日に、法定医師により死者は7人と断定された。ここでは、200個の起爆装置も発見された。自爆者らは、実行の前に、計14の通話をしていたが、その中の1件は英国向けであった。また、捨てられたゴミ袋の指紋から、住宅から逃げたのは、ダオード・オウナネ(Daoud Ouhnane)で、この指紋は、後述するカンゴー車からも検出された。
この件で殉職した警察特別機動隊員は、南マドリード墓地に埋葬されていたが、後の4月19日未明に墓が暴かれ、死体が損傷され、焼かれるという事件があった。この墓石は180キログラムの重さがあり、4人ほどが行動したとみられる。墓守が炎を見て駆け付けたが、犯人らは、工事中のフェンスを通って逃走した。レガネス事件の死者の家族や仲間による行動と見られる[31]。
同3月11日の爆発事件後の、朝9時前、列車の出発点であったアルカラ・デ・エナーレス駅から100メートルと近い、インファンタド・デ・アルカラ通り40番の集合住宅の門衛から、警察所に通報があった。その早朝、ルノー車カンゴー(業務用ミニバン)が、その住宅棟の前に駐車されて、不審な3人の男がいて何かしており、1人の背の高い男が、背負いバッグと手提げ型のスポーツバッグを持って駅の方に向かって行き、2人は残っていた、というものであった。その日は、寒くなかったが、頭部を覆っていたので、変に思ったという。
この車には、最初に到着した2台の車で到着した警察官達の目視によると、運転席前に名刺1枚、グレーのカセットテープがあり、後部荷台には何もなかったという。その後、爆発物探知の訓練犬が到着し、検査が行われたが異常が無かったので、14:30に、マドリード市の北西にあるカニ―ジャスの国家警察本部の爆発物処理隊(TEDAX)の部署に収容された。しかし、15:30には、荷台には、爆発物「Goma-2 ECO」の入れ物と国産の7個の起爆装置があった、と報道された。あるいは、それは座席の下から見つかったとされている。また、カセットテープは、アラビア語のテープであったが、コーランの朗読という風に報道された。この為、イスラム系の犯行の路線が出てきた。この車は、犯人らが駅まで到着するために使われたもの、と見なされた。
翌3月12日に、その車は2月28日にマドリードで盗まれた車であることが、判った[32]。2006年になって、名刺やテープには、ヴァスク州に由来する名があり、当初、ETAの犯行とみなされる要因があった点や、また、これらは車を盗まれた所有者の持ち物であったことが、警察によって明らかにされた[33] 。捜査側では、さらに犯行に使われた車があるに違いないと、周辺は、くまなく捜査された。さらに、6月になると、別の車、Skoda社製 Fabia車が、5台分の距離のところで発見された。
3月12日(金)の午前3時、アトーチャ駅からは2つ手前の街ヴァジェカスの交番にて、爆発物の入ったバッグが発見された。これは、「爆発物13」と呼ばれている。ここには、エル・ポソ駅からの残留品が集められており、バッグは、その中の1つであった。当初は、携帯電話が鳴っていたため検査されたと報道されていたが、法廷では、荷物を手作業で整理していて、午前2時半に運ばれてきたものの中に見つかったと証言されている。これは、検証の為、別の場所(Parque de Azcón)に、車3台で慎重に運ばれた。これは、手提げ型のスポーツバッグであって、10キログラムの「Goma-2 ECO」、銅製の起爆装置、携帯電話機(ミツビシ、Trim, T110)、破壊力を強めるための金釘類が入っていた。これは、配電線が外れていたことで爆発しなかった、と見られている[34]。その後、この携帯電話機やカードの追跡から、様々な捜査が展開していった。この時点で、ETAの使う起爆装置は、アルミ製であることや爆発物が異なる事で、ますますイスラム勢力の犯行である方向性が出てきた。しかし、このバッグについては、疑問点が挙げられており、後々にも問題が残った。
捜査側は、12日に発見された携帯電話とカードを辿ったところ、マドリード市ラバピエス区にある携帯関係の店に行きつき、13日、そこの店主であるジャマル・ゾウガム(Jamal Zougam)が逮捕された[35]。この店はその4年前に開店しており、外国人向けの長距離電話店で、携帯電話の販売・修理もしていた。彼は、イスラム関連の捜査をしていた判事の2001年報告書の中で、アル・カイダ組織に関連する告訴状をまとめた35人の中に名前があった人物であったが、当時は逮捕されていなかった[36]。
その後の捜査で、事件の8日前に、犯人らが、前払いカードを、ゾウガムの店で購入したという事に辿りついた。後に、店の雇用者は、「カードを9から10枚販売した。」と証言しており、ゾウガムが直接販売した訳ではなかった[37]が、機器の扱いに長けていたようであった。また、それらは、ジャマル・ゾウガムが、2人のインド人が経営する店から、携帯カードを購入した一連のものであることが判り、その番号の中で、爆破に使われなかったものを追跡した結果、いくつかの捜査の道が開かれることになった。
アセベス内務大臣は、13日午後8時、記者会見を行い、「3人のモロッコ人とインド人2人を逮捕した。」と公表した。後に、インド人は、関係が無いと判明した。犯人らは、携帯電話を犯行に使用したが、一方、通話の繋がりは、国際通話も含めて、捜査への手がかりを与えた。
3月15日には、爆発物処理隊は、爆発物や起爆装置が、スペイン北部のアストリアス州アヴィレスからのものであることを断定した。「Goma-2 ECO」は、アストリアス州の鉱山で良く使用されているものであった。さらに、3月18日には、ホセ・スアレス・トラスショッラス(José Emilio Suárez Trashorras、27歳)が、爆発物を犯人らに供給した容疑で逮捕された[38]。その後、彼の妻、義兄、周囲のグループなども逮捕された[39]。彼は、鉱山で、5年間働いていたが、2002年に統合失調症で仕事を辞めていた。2001年には、麻薬密売で逮捕されたこともあり、その後、警察の麻薬情報提供者にもなった。
そこに捜査が至ったのは、捜査側で一連の携帯カードの使状況を追跡していたが、その中の番号は、何回か同州で使用されていたからであった。その中の1つの通信は、後で判明する名であるが、犯行の中心者の1人、ジャマル・アハミダンが、スアレスの妻にかけた電話であった。同州警察内では、スアレスが、麻薬情報提供者であったことで、その妻も知られている存在であった。これが、スアレスが突き止められた糸口であった。
彼は、同州のコンチータ鉱山から爆発物を盗み、犯罪に使われる可能性を知りながら、ジャマル・アフミダン(Jamal Ahmidan)、通称「エル・チノ」に何回かに分けて、合計200キログラムを渡したとされている。テロ事件前の2月に、アフミダンは、アストリアスに車で来て、爆発物を受け取ったり、また、スアレスが、彼らを信用しなかったので、数回に渡り、仲間が爆発物をマドリードに届けるということになった。最終的には、爆薬物や起爆装置を渡し、その代償として、7千ユーロと麻薬ハシシ26キログラムを受け取ったという。
彼らの接点は、アストリアス州の刑務所に収監されていた、彼の義兄アントニオとラファ・ズエイルが、知り合いになり、スアレスの電話番号を知り、アフミダンとの取引の話が進んだという。この鉱山では、毎年2万キログラムの爆発物が使用されるが、漁に使うという目的で、少量が横流しされることもあった[40]。
3月26日には、マドリードの南東30キロメートル、アルカラからは、南に34キロメートルの郊外、モラタ・デ・タフニャ(Morata de Tajuña)と呼ばれる地にある仮住宅が捜査された。ジャマル・ゾウガムが、事件の数日前に、自らの携帯電話を使用していた事で、発信地であったこの場所が、14日には既に、警察に知れていた。しかし、関連者がここに近づく可能性があった為に、しばらく見張られていたものである。ここは、住宅整備がされていない荒地で、5年程前に土地を借りたモロッコ人達が、やがて自分達で不法に住宅を建てていた。この持ち主は、アブ・ダバ(Abu・Daba)と呼ばれる男で、アメリカ同時多発テロ事件の関連で、スペインのアル・カイダの中心者として2001年から収監されていた。妻は、その間、ジャマル・アハミダンにこの住宅を貸した[41]。こここは、道路は狭く周囲の地所から離れており、何かを隠れて行うには格好の場所であった。
警察は、ここで、数個の起爆装置や爆発物、文書、電話カード、パソコン等を発見し、また、2人のシリア人の指紋を採取した。さらに、地面には、最初に発見された商用バン、カンゴー車の車輪の跡があり、実行犯らは、ここで爆発物を製造し、前夜、ここに寝泊りして行動に向かったようである。彼らは、ここをベースにして、2003年の秋から暮れには、テロの構想を練っていたと考えられた[42]。
事件当初から、犯人らに使われた車両が、複数あったのではないかと考えられていたが、6月13日、同じアルカラ駅の近くで、Skoda 社製Fabia車が発見された。この車は、事件当日に発見されたカンゴー車から30メートル離れた同じ道路に駐車されており、これは、住民が警察に届けたもので、3か月以上駐車されていたという。これは、レンタカー会社に属していたものであったが、2003年9月に、別の州で盗まれていたものであった [43]。
これは、当初は、盗難車ということで、レンタカー会社に一旦引き渡され、社員が洗車をしたが、トランク内に旅行鞄があったことで、警察に連絡した。その調べにより、テロ犯行に使われた車であるとして、改めて捜査された。この鞄からは、自爆者の1人、モハメッド・アファタ(Mohamed Afatah)に関する衣類やコーランのオーディオテープ等が発見された[44][45]。しかし、事件当日には、周辺の入念に捜査されていたことで、この車は、後から、誰かに置かれたような不審点が残った[46][47]。
3月23日時点での死傷者数の公表では、死者190人、負傷者は1857人で、死者の内47人は外国籍であった。この件では、事件後の混乱により、「自爆者がいた」という流言があったり、不明者の問い合わせなどがあった[48]。後の5月に負傷した女性から生まれた新生児が死亡し、さらに2014年には、10年間昏睡状態であった女性が死亡した[49]ことで、この一連の事件での死者は、一般人192と特別機動隊の1人で、193人となった。また、負傷者は、2084人で、その内約100人が障害者となった。
また、死亡者発生の場所では、アトーチャ駅(列車1)では、34人、ポソ駅(列車2)では65人、サンタ・エウヘニア駅(列車3)では14人、タジェス通り(列車4)では63人、他、病院等で16人である。死者の主な出身国は、スペイン144人、ルーマニア16人、エクアドル6人、ブルガリア、ポーランド4人、ペルーが各3人他、全17か国となっている[50]。マドリード市の東側や南側は、移民が多く住む地域でもあったことで、外国籍の人々の死傷者が多くなった。死者には、自爆した7人もいる。
テロの起こった当日の午前中は、主要な中央や地方の政治家達は、ETAの犯行と捉え、犯行批判の声明を出した。しかし、ETAの政治上の中心者であるアーノルド・オテギは、ETAの犯行ではない、と断言し、「アラブの抵抗」である、とした[51]。アスナール首相は、11日11時に、ETAの犯行であることを公表し、また午後には、パラシオ外務大臣は、対外的に、大使館や国連に対して、ETAの犯行である旨を通達し、国連もその旨の公表を行った。
一方、3月12日、バスク州のメディア2社に「ETAはこれには、絶対的に関係していない。」と、その関係者を名乗る何者かが電話をしてきた[52]。同日、アセベス内務大臣は、ETAの通常使用ではない爆発物や起爆装置が発見されていたものの、「主な捜査対象は、ETAである」と公表していた。13日には、国民党のラホイ首相候補も、ETAの線を新聞社のインタビューで、同様に語っていたが、その頃には、捜査側は、爆発物の発見により、ETAの線は確かではないことを指摘していた。
爆破の原因は列車の車内に仕掛けられた時限爆弾によるものとみられている。当初はスペインから分離独立を目指して紛争を続けているバスク祖国と自由 (ETA)による犯行が疑われていた[24][55][56]が、ETAはすぐに事件への関与を否定する声明を出し[24][55][56]、警察も早い段階でETAの事件との関連は薄いものと判断した。
犯行後、「アブー・ハフス・アル=マスリー殉教旅団」と称するイスラーム過激派系のテロリストグループが、ロンドンのアラブ系有力紙に犯行声明を出した[56]。「死の部隊が欧州の深部に浸透し、十字軍の柱の一つであるスペインを攻撃し痛打を与えることに成功した」「(スペイン首相)アスナールよ、米国はどこだ。だれがお前を我々から守ってくれるのか。英国、日本、イタリア、そのほかの協力者か?」などと、電子メールを使って送ってきた。
警察当局は13日、実行犯とするモロッコ人3人とインド人2人を逮捕したと発表した[24]。しかし、実際に刑が確定されたのは、その後大量に逮捕された容疑者の中で16歳のアラブ系少年だけである。その後、テロに関与したとされる被告28人の公判が2007年10月31日に行われ、21人に有罪判決(残る7人は無罪)が下された。特に主犯格のジャマル・ゾガムら2人には4万年の禁固刑という非常に長い刑期が言い渡された[57]。スペインには死刑や終身刑の制度が存在しないため、このような判決になったものと思われるが、刑期は表面上だけに過ぎず、実際には40年程度に留まるものとみられている[57]。
スペイン国内ではイラク派兵を決めたアスナール政権への批判が集中し、即時の撤兵を求める市民の大規模デモが相次いだ。野党もあわせて政権を攻撃、折りしも総選挙の三日前に(狙ったものと思われる)起きた事件のため、選挙結果に直接の影響を与えた。選挙の結果を受けて国民党は下野し、スペイン社会労働党 (PSOE) のホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ政権が誕生した。新政権は成立直後にイラクからの撤兵を決定し、4月18日から5月までに撤退がすべて完了した。
スペインは同時に有志連合からも離脱し、アメリカは「テロに屈した」と強く非難した。フィリピンなどもその後、テロの関連から撤退を早めたり、数ヶ月で計6カ国が離脱する結果となったことは、テロが国家に対して影響力を持つことを印象づけた。
当初スペイン当局は「ETAによる犯行」と表明し[24][56]、それに追従した形でアメリカ政府もETAによるテロだと断定、スペインのテロとの戦いへの支持を表明したが、アルカーイダによる犯行が明らかになっていくにつれCIAがアルカーイダの犯行であると断言した。
総選挙はテロ3日後の3月14日であった。前日まではマスコミや国民の間でもETAによるテロだという話が流れていたが、選挙当日の14日朝になり、アルカーイダによるものだと発表された。それとともにTVでもアスナール首相がジョージ・W・ブッシュアメリカ大統領と握手をしている前年の会見模様が報じられ、一気に野党の社会労働党政権が有利となった形である。スペイン国内ではアスナール政権がETAによる犯行説を捏造したと言う疑惑が選挙後も根強く残り、サパテロ首相はテロ事件の真相解明に取り組むとして調査委員会を設置した。
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