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プブリウス・ウァレリウス・ファルト(ラテン語: Publius Valerius Falto、生没年不詳)は紀元前3世紀中期の共和政ローマの政治家・軍人。紀元前238年に執政官(コンスル)を務めた。
パトリキ(貴族)であるウァレリウス氏族の出身。ウァレリウス氏族の伝説的な祖先は、ロムルスとローマを共同統治したティトゥス・タティウスと共にローマに移住したサビニ人とされている[1]。その子孫であるプブリウス・ウァレリウス・プブリコラは共和政ローマの建国者の一人で最初の執政官である。その後ウァレリウス氏族は継続的に執政官を輩出してきた[2]。
父のプラエノーメン(第一名、個人名)はクィントゥス、祖父はプブリウスである[3]。コグノーメン(第三名、家族名)であるファルトは、エトルリアに起源があると思われる[4]。祖父のコグノーメンはプブリコラ(またはポプリコラ)で[5]、父がファルトを名乗ったと思われるが、父に関する情報は無い[6]。紀元前239年の執政官クィントゥス・ウァレリウス・ファルトとは兄弟である[4]。
現存するファルトに関する最初の記録は、紀元前238年に執政官に就任した際のものである。前年の執政官の一人は兄弟のクィントゥスであり、おそらくは彼の選挙に協力したものと思われる。同僚執政官はティベリウス・センプロニウス・グラックスであった。
ファルトは、キサルピナ・ガリア(アルプスの南側のガリア人)との戦争を指揮した。最初の戦闘ではガリアが勝利し、ローマは兵3,500を失った。しかし、二度目の戦闘ではローマが勝利、ガリア兵14,000が戦死し2,000が捕虜となった。しかし、最初の戦闘で敗北したため、ファルトは凱旋式を実施することは認められなかった[7]。
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