Loading AI tools
イタリアのサッカー選手 ウィキペディアから
フランコ・カウジオ(Franco Causio、1949年2月1日 - )は、イタリアプッリャ州レッチェ出身の元同国代表の元サッカー選手。ポジションはディフェンダー(SB)、ミッドフィールダー(SH)、フォワード(WG)。
10歳の時に、NAGCというサッカーアカデミーに加入[1]。その後、ユヴェンティーナ・レッチェへと移り、そこで出会ったコーチにより、USレッチェへと連れて行かれた[1]。1964年、15歳の時にはレッチェのプリマベーラへ加わった[1]。1964-65シーズン、16歳でセリエCの舞台にデビューした[1]。
17歳の時にユヴェントスに入団した。その後、セリエBのレッジーナ、パレルモで数年プレーした後、1970-71シーズン、にユヴェントスに復帰した[1]。その後11年間背番号7をつけてロベルト・ベッテガ、マルコ・タルデッリ、ディノ・ゾフらと共に6回のスクデット優勝に貢献。1972-73シーズンには、チャンピオンズカップの決勝に進むが、ヨハン・クライフらを擁したアヤックスに0-1で惜敗した[1]。1976-77シーズンのUEFAカップでは、チーム史上初の国際主要タイトルとなる、UEFAカップ優勝に貢献した[1]。1978-79シーズン、コッパ・イタリア決勝の第2戦ではパレルモから決勝点を奪い、チームを優勝に導いた[1]。1980-81シーズン終了後、チームから放出された。ユヴェントスでは公式戦446試合で72得点を記録した[1]。当初、ACミラン、ナポリ、フィオレンティーナ、ボローニャ、インテル・ミラノが獲得に動いたが、その後オファーを出したウディネーゼへと移籍した[1]。
1981-82シーズン、ウディネーゼに加わり、すぐにキャプテンに任命された[1]。このシーズンのリーグ最優秀選手賞(Guerin d'Oro)を受賞した[1]。1983年にジーコとチームメートになると、良いコンビネーションを見せ、ヴィルディスを含めたトリデンテの活躍により、一時は優勝争いをした[1]。ミラン戦、カウジオの決勝ゴールにより、チームの対ミラン公式戦、史上初の勝利をもたらしている。その後、ユヴェントスが複帰させようと動いたが、インテル・ミラノに加入した[1]。このシーズン、24試合に出場、チームはリーグ3位に終わった[1][3]。1985-86シーズン、レッチェに戻ってプレーするという、父親との約束を果たすため、チーム史上初のセリエA初昇格を果たした、レッチェへ複帰した[1][3]。このシーズン、自身はレベルの高いプレーを見せ、26試合で3得点を記録した[1]。しかし、チームはセリエBへの降格が決定した[1]。1988年にトリエスティーナでキャリアを終えた[1]。
イタリアU-21代表、U-23代表を経て、1972年4月29日、UEFA欧州選手権予選プレーオフ、ベルギーとの対戦でフル代表としてデビューした[1]。1974年のワールドカップ・西ドイツ大会では、2試合に起用された(ポーランド戦でファビオ・カペッロの得点をアシストした[4]。)[1]。
1978年のワールドカップ・アルゼンチン大会では、イタリアの全7試合に出場、1次リーグでは2つのアシストを記録した[4]。3位決定戦のブラジル戦で1得点を決めた[1]。1980年のUEFA欧州選手権では4位に終わった。その後、しばらくの後から、約2年間代表から遠ざかっていたが、ブルーノ・コンティの控え選手の扱いながら、1982年のワールドカップ・スペイン大会のメンバーに召集され、2試合に出場、優勝を果たした[1]。1983年2月12日、UEFA欧州選手権予選のキプロス戦まで代表でプレーした[1]。
運動能力が高く、スピードがあり、プレーは予測が不可能、ボールコントロールやドリブルが上手く、両足が使え、セットプレーでも威力を発輝、クロスや強烈なシュートも持ち味で、肉体も丈夫であったことから、39歳までプレーした[1]。
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Every time you click a link to Wikipedia, Wiktionary or Wikiquote in your browser's search results, it will show the modern Wikiwand interface.
Wikiwand extension is a five stars, simple, with minimum permission required to keep your browsing private, safe and transparent.