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本格的に作曲が開始されたのは1914年の3月だが、ラヴェルは少なくともその半年前からピアノ三重奏曲の作曲を計画していた。作曲の序盤において、ラヴェルは弟子のモーリス・ドラージュに「三重奏曲はもう書けているのです。今必要なのはただ主題だけです」[1]と述べている。1914年の夏にラヴェルは、フランス領バスクのコミューンであるサン=ジャン=ド=リュズに滞在して作曲を行っていた。ラヴェルの母親はバスク人であり、ラヴェル自身もバスク地方の街シブールで生まれたため、バスクの伝統に強く自分のルーツを見ていた。そして、三重奏曲の作曲中にラヴェルは、バスクの主題に基づくピアノ協奏曲『サスピアク=バット』の作曲も並行して進めていた。こちらは後に破棄されることになる(一部がピアノ協奏曲ト長調に転用される)が、三重奏曲にもその痕跡は残っており、特に第1楽章についてラヴェル自身が「バスク風の色彩を持つ」[1]と述べている。
当初、作曲はゆっくりと進んでいたが、第一次世界大戦が勃発して8月にフランスが参戦したことで、徴兵に応じるつもりだったラヴェルに作品を完成させる意欲が巻き起こった。フランスの参戦から数日後、ラヴェルはデラージュに「私は三重奏曲を確信を持って、正気を取り戻した狂人のように書いています」と述べている。9月には作品が完成し、イーゴリ・ストラヴィンスキーに「すぐに出発しなければという思いに駆られて、5か月かかる仕事を5週間でやり遂げました! 三重奏曲は完成しました」[1]と書き送っている。ラヴェルは10月には陸軍の看護助手として採用されたうえ、1915年3月には志願兵となり、第13砲兵連隊のトラック運転手として従軍した。
作品はラヴェルの対位法の師であるアンドレ・ジェダルジュに献呈され、初演は1915年1月28日にパリのサル・ガヴォーで開催された独立音楽協会の演奏会において[2]、アルフレード・カゼッラのピアノとガブリエル・ウィヨーム (Gabriel Willaume) のヴァイオリンおよびルイ・フイヤール (Louis Feuillard) のチェロによって行われた[1]。同年には、パリのデュラン社によって出版されている。自筆譜は現在、テキサス州オースティン大学が所有している。
ピアノ三重奏曲を作曲するにあたり、ラヴェルはこのジャンル自体が作曲上の困難を持っていることを意識していた。どうやってピアノと弦楽器の対照的な音色を調和させるか、またどうやって3つの楽器のバランスを取るか、特にチェロを聴き取りやすくするためにはどう他の楽器と対置すればいいかという点である。音色の調和については、ラヴェルは管弦楽的な書法を持ち込むことで対処した。各楽器をきわめて広い音域において大胆に用いることで、通常の室内楽には見られないような豊かなテクスチュアを作り出したのである。また、トリル、トレモロ、ハーモニクス、グリッサンド、アルペジオといった色彩効果を自由に用いているが、これは3人の奏者に高い技術を要求することになった。一方、テクスチュアの明快さと各楽器のバランスを保つため、ラヴェルはヴァイオリンとチェロを2オクターヴ間隔で配置し、その間にピアノの右手のパッセージを挟む書法を頻繁に用いている[1]。
『三重奏曲』の音楽素材の着想は、バスクの舞踏からマレーシアの詩に至るまで幅広い分野から得られている。しかしラヴェルは、彼が普段から好んでいた伝統的な形式から外れているわけではない。作品は型通りの古典的な4楽章構成に沿っており、トリオの付いたスケルツォと緩除楽章をソナタ形式に基づく両端楽章が囲んでいる。そのうえでラヴェルは、自身の独創を古い形式に導入しようとしていたのである。
4つの楽章からなり、演奏時間は30分程度。
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