トデゲン
3世紀のジョチ・ウルスの人物。モンケ・テムルの三男。母はスルタン・ハトゥン(第二正妃、Sultan Khatun、ウーシン部族(Hüshin tribe)、子にアヤチ(Abachi)) ウィキペディアから
3世紀のジョチ・ウルスの人物。モンケ・テムルの三男。母はスルタン・ハトゥン(第二正妃、Sultan Khatun、ウーシン部族(Hüshin tribe)、子にアヤチ(Abachi)) ウィキペディアから
トデゲン(ペルシア語: توداکان / Tödägän)は13世紀のジョチ・ウルスの人物である。モンケ・テムルの子、トクタの兄弟にあたる。またルーシの年代記(レートピシ)中では「Дюдень」と名を記録されており[1]、ロシア史に関する日本語文献ではこれに基づく「デュデン」を用いているものがある[2]。
13世紀後半(モンゴルのルーシ侵攻以降)、ウラジーミル大公国領では、アレクサンドル・ネフスキーの子ドミトリーとアンドレイが、ウラジーミル大公位を巡って政権闘争を繰り広げていた。この情勢に際し、トデゲンは1293年[3]、アンドレイ側に立って軍事介入を行った。ロシア史においては、これをデュデンの侵寇という[注 1]。この介入はノガイの依頼に従ったという説[4]、ノガイの権勢増大を望まないトクタの命によるとする説[5]、立案はアンドレイであり、アンドレイがトダ・モンケに要請したとみなすべきとする説がある[2]。トデゲンはこの介入において、モスクワを含む[6]、スーズダリ、ウラジーミル、ムーロム、コロムナなど14のルーシの都市を荒廃させた。
デュデンの子チョルハン(ru)[注 2]はトヴェリ公国に対し強権を発動したため、1327年、トヴェリ公国民の蜂起(トヴェリ蜂起[注 3])によって殺害された[7]。
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