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アメリカ合衆国出身のロック・バンド ウィキペディアから
スターシップ(Starship)は、アメリカ合衆国出身のロックバンド。
同国のロックバンド「ジェファーソン・スターシップ」(ジェファーソン・エアプレイン)から、分離改名する形で発足したグループ。一度解散したが、旧メンバーのミッキー・トーマスが興したバンドが、名跡を継いでいる。
1984年6月、ジェファーソン・エアプレイン結成時のメンバーで、残る唯一のメンバーだったポール・カントナーがジェファーソン・スターシップを去った。しかし、同時に「ジェファーソン・スターシップ」という名称の使用を巡って法的措置に訴え、バンド・メンバー達にこの名称の使用について申し立てをしたのである。そしてカントナーは法廷での和解に応じ、「ジェファーソン・エアプレイン・インクの全てのメンバー(ビル・トンプソン、ポール・カントナー、グレイス・スリック、ジョーマ・コーコネン、ジャック・キャサディ)が同意しない限り、誰も、『ジェファーソン』もしくは『エアプレイン』の名を使用しない」という裁定に署名したのだった。
スターシップは、バンドの名前をごく短い間だが、「スターシップ・ジェファーソン」としていたことがある。しかしそれは法的決定が下される以前のことだった。結局、最終的にバンドの名前は「スターシップ」に縮められることに決まった。
デイヴィッド・フライバーグはこの裁判沙汰の後もバンドに残り、アルバム『フープラ』の最初のセッションに参加している。しかし彼はこのセッションに満足することができなかった。というのも、キーボードのパートをフライバーグを差し置いて、すべてピーター・ウルフ(『ニュークリア・ファーニチャー』のセッションに参加後、『フォロー・アップ・ツアー』のツアーの短い期間だけバンドに加入)が演奏したため。[3]。結局フライバーグはバンドを辞め、残った5人によって『フープラ』が仕上げられることになった。1984年から1986年末までに行われたライブセッションでは、ガブリエル・カトーナが、サポートメンバーとしてキーボードとサックスを演奏した。
アルバム『フープラ』は1985年10月に発売された。このアルバムからはNo.1ヒットが2曲生まれている。まず最初に、バーニー・トーピン、マーティン・ペイジ、デニス・ランバート、ピーター・ウルフらの作曲、グラミー賞受賞プロデューサーであるビル・ボトレルのエンジニアリング、そしてボトレルとジェイスン・マーツのアレンジによる「シスコはロック・シティ」である。もう一曲は「セーラ」だった。このアルバムは全米最高7位まで上昇し、プラチナディスクとなった。そしてこのアルバムからはさらにもう2曲、シングル曲を発売している。「トゥモロー・ダズント・マター・トゥナイト」と「ビフォー・アイ・ゴー」である。それぞれ最高26位、68位につけている。バンドは、オリジナル・メンバーによるジェファーソン・スターシップが1975年に『レッド・オクトパス』を発売して以来、ここにきてようやくNo.1ヒットを出したのだった。
1987年初頭、アルバート・ハモンドとダイアン・ウォーレンの共作による「愛はとまらない(原題:w:Nothing's Gonna Stop Us Now)」が映画『マネキン』の主題歌となり、No.1ヒットとなる。しかし、ヴィデオには、グレイス・スリックとミッキー・トーマスの2人にギターのクレイグ・チャキーソを加えた3人だけが出演している。この当時、この曲がNo.1になったことで、グレイス・スリックは、「『ビルボードホット100』の第一位を獲得した曲を歌う歌手の中で最も年長の女性歌手」となった。スリックはこの時47歳だった(この記録はシェールが1999年に「ビリーヴ」を52歳で歌うまで破られなかった)。翌1988年には、「ワイルド・アゲイン」(ビルボードのシングルチャートで73位まで上昇した)が映画『カクテル』で使用されている。
スターシップの2枚目のアルバム『ノー・プロテクション』が発売されるまでに、ベースとキーボードを担当していたピート・シアーズが、音楽性の変化に不満を抱き、バンドを脱退。シアーズは脱退後、ジェファーソン・エアプレインの前バンドメンバーのジョーマ・コーコネン、ジャック・キャサディと共に、バンド「ホット・ツナ」で10年間キーボードを担当した。
この『ノー・プロテクション』は、このアルバムの中で最も有名なシングル「愛は止まらない」がチャートで1位に輝いた後にやっと発売され、ゴールドディスクを獲得している。「愛は止まらない」に続いて「イッツ・ノット・オーヴァー」(最高第9位)、「ビート・パトロール」(最高第46位)が発売されている。アルバムの最後に収録された「今夜はミュージックナイト(Set the Night to Music)」は、1991年にロバータ・フラックのアルバム『ナイト・トゥ・ミュージック』においてフラックとマキシ・プリーストのデュオでカヴァーされ、全米6位の大ヒットとなる[4]。『ノー・プロテクション』のプロモーション・ツアーには、シアーズの後任としてブレット・ブルームフィールドが正式メンバーとして加わり、また、フライバーグ以来の正式メンバーであるキーボーディストとしてマーク・モーガンが加入した。
1988年、グレイス・スリックが、再結成されたジェファーソン・エアプレインに加わるため、スターシップを脱退。再結成ジェファーソン・エアプレインは1989年にアルバム1枚を発表し、その後スリックは音楽業界から引退する。カントナー、シアーズ、フライバーグがジェファーソン・エアプレインを辞め、新たに入れ替わって残っていたメンバー達は皆、彼女より十歳以上若い人間ばかりだったのである。今日に至るまで、スリックは「年寄りはロックンロールの舞台に上がってはダメ」を守っている[5]。
ミッキー・トーマス一人をリード・ボーカルとして、刷新された顔ぶれでスターシップは1989年8月に『ラヴ・アマング・ザ・カニバルズ』を発売しツアーを行ったものの、以前のように高い評価を得ることはできなかった。1989年9月24日、ライブのためにペンシルヴァニア州スクラントンに滞在していた際に、ドニー・ボールドウィンとの激しい口論の末、ミッキー・トーマスは頭蓋および顔面の手術を余儀なくされるほどの重傷を負った。この手術の結果、トーマスの頭蓋骨には2枚のチタンプレートが埋め込まれた。ボールドウィンはこの事件の後即座にバンドを解雇された。ツアーの残りの日程は、トーマスが回復しライヴを行うことができるようになるまで延期された。
ミッキー・トーマスがツアーに再び出られるようになるところまで回復した時点で、アルバムの販促のためにバンドは再びツアーに出た。解雇されたボールドウィンに代わり、ケニー・ステイリポラスがツアーメンバーとしてドラムを演奏。さらに、グレイスが辞めた後、2人の女性バック・ボーカル、クリスティーナ・マリー・サクストンとメリッサ・ケアリーが加わった。1990年にカニバルズ・ツアーが終わった後、最後まで残っていたジェファーソン・スターシップのオリジナルメンバーであるチャキーソが辞めることになった。トーマスは、この3枚目のアルバムの売れ行きがかなり悪かったことについて、ツアー中断したことが主な原因だと考えている。彼によれば、このアルバムは個人的に最も好きな作品だという[6]。
翌1991年の初頭、RCAレコードから『スターシップ・グレイテスト・ヒッツ 10イヤーズ・アンド・チェンジ1979-1991』が発売される。このベスト・アルバムには2曲の新曲が含まれており、1曲はトーマスとチャキーソが前に出て演奏しているもので、もう1曲ではトーマスだけが目立つ内容となっていた。精選歌集発表後しばらくの間は、トーマスがスターシップを続けていくものと見られていたが、しかし支配人のビル・トンプソンは樂團を解散することを決め、RCAレコードにバンドがその活動を終了することを告げた。
1992年、ミッキー・トーマスはスターシップを独自に再興し、「ミッキー・トーマス&スターシップ」として活動を再開した。しかし、最終的には「スターシップ featuring ミッキー・トーマス」という名前に落ち着き、それ以来、以前とは異なる團員で堅実に巡演ーを行っている。
2012年7月、日本公演を開催[7]。2000年以降からメンバーであったギタリストのマーク・アブラハミアンが、9月2日のコンサートの終了後、心臓発作で死去(享年46歳)[8]。後任には、ジョン・ロスが加入した。
※正式團員として参加した人物のみを記載。
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