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ジョン・アンスティス(英語: John Anstis FSA、1708年11月17日 – 1754年12月5日)は、イギリスの紋章官(ガーター・プリンシパル・キング・オブ・アームズ、在任:1727年 – 1754年[1])。1725年に復活したバス騎士団の初代ブラン・クールシエ・ヘラルド(在任:1726年 – 1754年)を務めた[2]。
紋章官ジョン・アンスティスと妻エリザベス(Elizabeth、旧姓カッドリップ(Cudlipp)、1675年ごろ – 1735年ごろ、リチャード・カッドリップの娘)の第7子として、1708年11月17日にセント・クレメント・デーンズで生まれた[3]。ウェストミンスター・スクールを短期間通った後、家庭教師ミシェル・メーテールの教育を受け[3]、1725年9月8日にオックスフォード大学コーパス・クリスティ・カレッジに入学した[4]。
1725年5月にバス騎士団が再創設されると、騎士団付き系譜学者に任命された[3]。バス騎士団付き系譜学者の兼任するブラン・クールシエ・ヘラルドには1726年1月14日に指名され、1727年10月6日に正式に任命された[2]。また、父が1719年よりガーター・プリンシパル・キング・オブ・アームズを務めていたが、1727年6月9日に父との共同就任が決まり、1730年6月18日に宣誓して正式に就任した[2]。
1730年10月16日にミドル・テンプルに入学、1731年10月29日に弁護士資格免許を取得した[5]。
1733年、父とともにガーター・キング・オブ・アームズとしてデン・ハーグに向かい、オラニエ公ウィレム4世にガーター勲章を正式に授与した[3]。それ以外にも度々単独で大陸ヨーロッパに向かい、外国の人物にガーター勲章を授与した[3]。1736年7月21日、ロンドン考古協会フェローに選出された[6]。
1744年3月4日に父が死去すると、その遺産を継承し、単独就任として引き続き紋章官を務めた[2][5]。1749年4月13日にオックスフォード大学よりD.C.L.の学位を授与され[4]。14日にミドル・テンプルの評議員に選出された[5]。1753年にはミドル・テンプルの朗読者(reader)を務めた[5]。
一般的には紋章官として有能だとされるが[2]、「激しく執念深い」(violent vindictiveness)性格だったため敵が多く、特に紋章院での同僚に敵視されることが多かった[1]。たとえば、同時代の紋章官ジョン・ウォーバートンはおそらく敵意をもってアンスティスを「特筆すべきことは(紋章学について)何も知らないことだけ」(only remarkable for knowing nothing whatever of the matter)と評している[2]。
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