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シリヴェストル・“シリヴァ(シリヤ)”・ヤセーヴィチ・トドリヤ(ロシア語: Сильвестр (Сильва / Силия) Ясевич Тодрия、1880年1月16日 - 1936年6月8日)、民族名シリビストロ・“シリア”・エセス・ゼ・トドリア(グルジア語: სილიბისტრო (სილია) ესეს ძე თოდრია)は、グルジア人のボリシェヴィキ政治家・作家。ロシア語で名はシリビストロ (Силибистро)[1]、父称はイセーヴィチ (Исеевич) とも[2]。
シリヴェストル・ヤセーヴィチ・トドリヤ Сильвестр Ясевич Тодрия სილიბისტრო ესეს ძე თოდრია | |
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イサーク・ブロツキーによるトドリヤの肖像画(1920年) | |
生年月日 | 1880年1月16日 |
出生地 | ロシア帝国クタイス県オズルゲチ郡ヤネウリ |
没年月日 | 1936年6月8日(56歳没) |
死没地 |
ソビエト連邦 ザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国 グルジア社会主義ソビエト共和国、トビリシ |
前職 | 新聞編集者 |
所属政党 | ボリシェヴィキ |
在任期間 | 1933年2月28日 - 1936年6月8日 |
在任期間 |
1924年 - 1927年 1929年 - 1933年 |
在任期間 | 1921年 - 1922年 |
在任期間 | 1922年 - 1922年 |
在任期間 | 1927年 - 1929年 |
その他の職歴 | |
グルジア社会主義ソビエト共和国 チフリス革命委員会議長 (1921年2月26日 - 6月10日) |
1880年1月16日(ユリウス暦4日)、ロシア帝国クタイス県ヤネウリの極貧の農家[3]に生まれた[4]。1901年にロシア社会民主労働党に入党し、同年から1915年までバクーで党の地下出版局を指導した[5]。バトゥム、モスクワ、サンクトペテルブルク、ヴィボルグなど各地の党出版所で活動し、『フペリョード』・『プロレタリー』紙の[5]、1915年にはチフリスで『ブルゾーラ』(ru)・『カフカースキー・ラボーチー』(ka) 両紙の発行に関わる[6]。1901年のバトゥム印刷労働者ストや1905年のモスクワ十二月蜂起にも参加している[5]。帝政時代に7回、グルジア民主共和国時代に2回の逮捕を経験している[3]。
1917年にはボリシェヴィキ・チフリス委員会およびカフカース地方委員会のメンバーに就き[4]、同年からユーモアと風刺に特化した政治作家としての活動を始めた[3]。1920年のコミンテルン第2回大会にも出席し[5]、グルジア社会主義ソビエト共和国の成立後は1921年2月26日から6月10日まで初代チフリス革命委員会議長を務めた[6]。同年から翌1922年まで社会保障人民委員、1922年に農業人民委員、1924年から1927年まで全グルジア中央執行委書記、同年から1929年まで労働人民委員、同年から1933年まで再度全グルジア中央執行委書記に就いた[4]。作家としてはグルジア・プロレタリア作家協会の創立者・会長として風刺雑誌『クロコディル』編集者[6]・寄稿者となり[3]、1930年からは『メブルゾリ・ウグメルト』誌編集者として反宗教宣伝の先鋒に立った[7]。
ソビエト連邦中央執行委メンバー[5]、1933年2月28日からザカフカース社会主義連邦ソビエト共和国中央執行委書記ともなったが、在職中の1936年6月8日にトビリシで死去し[4]、同地のムタツミンダ・パンテオンへ葬られた[6](共産主義者としてはシモン・ジュゲリ (ka) に続いて2番目の被葬者[8])。トドリヤの名はトビリシの通りに付けられた[6]。しかし、トドリヤの遺体はフィリップ・マハラゼ、ミハ・ツハカヤとともに、1989年末にフダドフの森 (ka) に改葬された[9]。
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