エレン・テスレフ
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エレン・テスレフ(Ellen Thesleff、1869年10月5日 - 1954年11月12日)は、フィンランドのモダニズムの画家、版画家である[1][2]。
ヘルシンキで生まれた[3]。父親は技術職の役人であり、アマチュア画家でもあった。父親の仕事の関係で1872年から1884年の間はクオピオで育ち、家族と夏はカッラ湖(Kallavesi)の島(Kumpusaari)の別荘で過ごした。ヘルシンキに家族と戻り、1884年からヘルシンキの学校に入った[1]。
父親から最初に絵を学び、父親は娘を展覧会に連れて行き、娘のためにモデルを雇った。1885年からにアドルフ・フォン・ベッカー(1831-1909)が運営するヘルシンキの美術学校で学びはじめ、1887年にフィンランド美術協会の絵画学校で絵の勉強を続けた。学んだ教師の中にはフレドリック・アールシュテット(Fredrik Ahlstedt: 1839-1901)もいた。 1890年から、マグヌス・エンケル(1870-1925)やベーダ・ステアンシャンツ(Beda Stjernschantz: 1867-1910)、ヴァイノ・ブロムシュテット(Väinö Blomstedt: 1871-1947)らの仲間の学生と、グンナル・ベルントソンの美術学校にも通い始めた。1891年のフィンランド芸術家協会の秋季展覧会に初めて作品を出展し、作品は好評で事務局に買い上げられた。
1891年の秋、仲間の画家のAnna Bremer、Jenny Cajander、Sigrid Granfeltとパリに留学し、私立の美術学校、アカデミー・コラロッシに入学し[1]、ギュスターヴ・クルトワや、ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ウジェーヌ・カリエールに学んだ。パリでは、ルーヴル美術館などの美術館や展覧会を熱心に訪れ、作品を模写して修行した。レオナルド・ダ・ヴィンチやサンドロ・ボッティチェリの作品やエジプト美術にも関心を持った。夜には、北欧からの芸術家が集うカフェの「レジャンス(Régence)」を訪れ、フィンランド人のアレクサンダー・フェデリー(Aleksander Federley)やペッカ・ハロネン、スウェーデン人のファニー・ラストボム(Fanny Låstbom)とゲルダ・アールム(Gerda Ahlm)らと知り合った。
アカデミー・コラロッシで1892年3月まで学んだ後、6月初旬までパリに留まり、マグヌス・エンケルやカール・ウィルヘルムソン(Carl Wilhelmson)とともにブリュッセル、アントウェルペン、リューベックを経由してフィンランドに帰国した。
1894年に初めてイタリアを訪れた。弟のロルフ・テスレフ(Rolf Thesleff: 1878-1938)が外交官になり、1925年から1930年の間ローマ勤務をしたことのあり、その後もしばしば、母親らとイタリアを訪れることになった。何度かフィレンツェも訪れ、イギリスの演出家のエドワード・ゴードン・クレイグと知り合い 、クレイグの演劇雑誌に版画作品が掲載されたこともあった。
1900年のパリ万国博覧会の展覧会に出展し、銅メダルを受賞した。
1909年にマグヌス・エンケルらのフィンランドの前衛的な画家たちと美術家グループ「7人会(septem-ryhmä)」を結成し、1912年からグループ展に出展した。このグループ展は1918年まで展覧会を開いた。
1890年頃から1950年ころに至るまで精力的に作品を描き、初め自然主義的なスタイルから、20世紀に入ると表現主義のスタイルに変わった。
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