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フィンランド系アメリカ人の建築家 (1873-1950) ウィキペディアから
ゴットリーブ・エリエル・サーリネン (芬: Gottlieb Eliel Saarinen [ˈsɑːrɪnən], フィンランド語: [ˈelie̯l ˈsɑːrinen]; 1873年8月20日 - 1950年7月1日)は、フィンランド南東部の旧ロシア帝国領の町・ランタサルミ生まれの建築家・都市計画家。20世紀初頭、フィンランドにアール・ヌーヴォー様式の建築を多く建てた人物。後にアメリカ合衆国に移り、アールデコの時代の超高層ビルデザインに大きな影響を与えたほか、美術やデザインの教育に力を入れた。アメリカの建築家エーロ・サーリネンは息子[1][2]。
エリエル・サーリネン | |
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肖像(1900年代前半) | |
生誕 |
ゴットリーブ・エリエル・サーリネン 1873年8月20日 フィンランド大公国 ランタサルミ(旧ロシア帝国領) |
死没 |
1950年7月1日(76歳没) アメリカ合衆国 ミシガン州 ブルームフィールドヒルズ |
国籍 | フィンランド |
出身校 | ヘルシンキ工科大学 |
職業 | 建築家 |
配偶者 | Loja Saarinen |
子供 | |
受賞 |
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建築物 |
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プロジェクト |
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デザイン |
サーリネンは1873年8月20日にフィンランド大公国ランタサルミに聖職者の父Juho Saarinenと母Selma Bromsの間に生を受ける[3]。森と平野に恵まれた郷里から、やがて旧ロシア帝国領のインケリ地方に移り住む。科学と語学の勉強が得意で、10代で美術に関心を持つようになると、学校の長期休暇にサンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館に行くことを楽しみにしていた[3]。タンペレ(典: Tammerfors)にあった美学校に進学したサーリネンは水彩画と風景画を描き、やがてデザインを学んで後にヘルシンキ工科大学(ロシア帝国領ヘルシンキ)で建築を学ぶ[3]。
学友のヘルマン・ゲゼリウス とアルマス・リンドグレン と大学在学中に事務所 Gesellius, Lindgren, Saarinen を作り共同生活を始めた。最初の大きな作品は、1900年パリ万博のフィンランド・パヴィリオンであり、フィンランドの木造建築、イギリスのゴシック・リヴァイヴァル建築、ドイツのユーゲント・シュティールなどさまざまな様式からの影響をひとつに纏め(まとめ)上げた作風であった。初期の建築スタイルは後世の評価により、19世紀末期、「カレワラ」や欧州各地に広がった民族主義を背景にフィンランドで燃え上っていた国民的ロマン主義の建築分野における展開と認められている。国民的ロマン主義はヘルシンキ中央駅(1904年設計、1910年-1914年建設)で頂点に達したが、このコンペ入賞をきっかけにロマン主義の同志であったゲゼリウスやリンドグレンらとの共同活動に終止符を打ち、独立することとなった。サーリネンは他にもフィンラン国立博物館(1912年)を手がけたほか、フィンランドの郵便切手数種(1917年[4])や1922年に発行されたマルッカ紙幣もデザインしている。
都市計画分野でも活躍し、1911年にはハンガリーの首都ブダペストの都市計画顧問をつとめ、1912年にはオーストラリア連邦のキャンベラ新首都計画のコンペでウォルター・バーリー・グリフィンに続く次点に入選、エストニア・タリンの再開発都市計画コンペでは見事1等に輝いた。フィンランド国内ではヘルシンキ中央駅周辺整備計画(1910年–)と、同市に含まれる市街地ムンキニエミから郊外のハーガまで視野に入れた住宅地開発計画(Munksnäs-Haga=現ヘルシンキ第30区)を担当し、後者は1915年に860 haの広大な住宅地の#構想を著して上梓する。1917年に祖国フィンランドが独立、首都ヘルシンキの都市計画顧問を受諾すると、1918年には大ヘルシンキ計画チ-レンハラディ・プランを発表した[5][6][7][8]。
1922年、シカゴ・トリビューン社の本社屋、トリビューン・タワーの国際建築設計競技が行われ、サーリネンは次点であった。水平の線を廃して上へと伸びる垂直線を強調し、上層部になるほどセットバックして細くなる設計案[9] は1位になれず実現しなかったものの、屋上を押さえつけるようにコーニスを配したそれまでの箱型の高層ビルとは異なる、ゴシック的で上昇感の強いデザインはアメリカの建築界に衝撃を与え、以後、国内各地にサーリネンのデザインを模し、上に向かって細くなる設計の超高層ビルが氾濫した。中でもヒューストンに1929年に完成したガルフビル は忠実になぞった例である。
トリビューン・タワー設計を機に翌1923年、家族を伴ってアメリカに移住し、ミシガン州を拠点に設計・教育活動を続けた。在米2年目にはミシガン大学の招聘教授の座を受託する[1]。
1925年、ミシガン州の大手地方紙社主で芸術愛好家でもあったジョージ・ゴフ・ブース(George Gough Booth)は、かねて構想していたアメリカ版バウハウスとなるべき学校群のキャンパスの設計をサーリネンに依頼した。そのクランブルック教育コミュニティ(Cranbrook Educational Community)を手がけたサーリネンは同所に美術アカデミーが開学すると教職を得て、1932年には校長に任じられた。同学からチャールズ・イームズやレイ・イームズ(当時はカイザー姓)などの優れたデザイナーや芸術家が生まれた。サーリネンはのちにイームズ夫妻と仕事で組んでおり、家具デザインに大きな影響を与えた[1]。クランブルックではサーリネンの妻も織物や染色を教え、スカンジナビア・デザインの染織工房を構えてサーリネンの建築物の内装に参加する[10]。
ミシガン大学(アナーバー校舎)の建築学部教授にもなっており、教え子のひとりエドモンド・N・ベーコンは、1949年から1970年にかけてフィラデルフィアの都市計画総合プロデューサーを委嘱され、高い評価を得ている。渡米後まもない時期に招聘を受けて来学して以来、長年にわたるその貢献を記念し、今日、同学のタウブマン建築・都市計画学部は客員教授プログラムにサーリネンの名を冠している。
息子のエーロ・サーリネン(1910年-1961年)は20世紀半ば(ミッド・センチュリー)のアメリカを代表する建築家となり、父子共作もある[1][2]。
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