アレグザンダー2世 (スコットランド王)

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アレグザンダー2世 (スコットランド王)

アレグザンダー2世Alexander II, 1189年8月24日 - 1249年7月8日[1])は、スコットランド王(在位:1214年 - 1249年)。ウィリアム1世と、イングランドヘンリー1世の庶子コンスタンスの孫娘エルマンガルド・ド・ボーモン (en) の長男。

概要 アレグザンダー2世 Alexander II, 在位 ...
アレグザンダー2世
Alexander II
スコットランド国王
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在位 1214年 - 1249年

出生 (1189-08-24) 1189年8月24日
スコットランド王国、ハディントン
死去 (1249-07-08) 1249年7月8日(59歳没)
スコットランド王国、ケレラ
埋葬 スコットランド王国メルローズ修道院
配偶者 ジョーン・オブ・イングランド
  マリー・ド・クシー
子女 アレグザンダー3世
家名 アサル家
王朝 アサル朝
父親 ウィリアム1世
母親 エルマンガルド・ド・ボーモン
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生涯

1214年に父ウィリアム1世が77歳で没した後、16歳で王位を嗣いだ。1219年、イングランド王ヘンリー3世の妹ジョーンを王妃に迎え、イングランドと友好関係を復活した[2]1236年にヨーク条約でイングランドとの国境線を確定した[3]

アレグザンダーは外交上の懸案を取り除いてから、父が確立した行政機構を活用して内政を充実させていった。1238年に王妃ジョーンと死別すると、フランス貴族の娘マリー・ド・クシー (en) と結婚した。ヘンリー3世はこれをイングランドへの敵対行為と見なし、アレグザンダーへ言いがかりを続けた[3]1244年に、ようやくニューカッスルで和解した[4]

同年、ノルウェーからのヘブリディーズ諸島の奪還を目指して、スコットランド西部へ軍を進めた[4]。しかし、その途中ケアララ島で没した[4]。後妻マリーとの間にもうけた一人息子のアレグザンダー3世が7歳で王位を嗣いだ。

家族

1221年6月21日、ヘンリー3世の妹ジョーンと結婚した。2人の間に子はいなかった[5]

1239年5月15日、フランス貴族アンゲラン3世・ド・クシーの娘マリー・ド・クシーと結婚し[6]、1男をもうけた。

マリー・ド・クシーはアレグザンダーの死後、フランス貴族ジャン・ド・ブリエンヌ(1230年頃 - 1296年、エルサレム王ジャン・ド・ブリエンヌの息子)と再婚した。

脚注

参考文献

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