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スペインのサッカー選手 ウィキペディアから
アルベルト・フェレール・リョピス(Albert Ferrer Llopis, 1970年6月6日 - )は、スペイン出身の元サッカー選手、現サッカー指導者。元スペイン代表。現役時代のポジションはDF(右サイドバック)。
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2008年のフェレール | |||||||||||
名前 | |||||||||||
本名 |
アルベルト・フェレール・リョピス Albert Ferrer Llopis | ||||||||||
愛称 | チャピ(Chapi) | ||||||||||
ラテン文字 | Albert FERRER | ||||||||||
基本情報 | |||||||||||
国籍 | スペイン | ||||||||||
生年月日 | 1970年6月6日(54歳) | ||||||||||
出身地 | バルセロナ | ||||||||||
身長 | 170cm | ||||||||||
体重 | 65kg | ||||||||||
選手情報 | |||||||||||
ポジション | DF (RSB) | ||||||||||
利き足 | 右足 | ||||||||||
ユース | |||||||||||
マリステス・ルビ | |||||||||||
1983-1987 | バルセロナ | ||||||||||
クラブ1 | |||||||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | ||||||||
1987-1988 | バルセロナC | 32 | (0) | ||||||||
1988-1990 | バルセロナB | 48 | (2) | ||||||||
1990 | → テネリフェ (loan) | 17 | (0) | ||||||||
1990-1998 | バルセロナ | 204 | (1) | ||||||||
1998-2003 | チェルシー | 76 | (0) | ||||||||
通算 | 377 | (3) | |||||||||
代表歴 | |||||||||||
1988 | スペイン U-18 | 7 | (1) | ||||||||
1988-1989 | スペイン U-19 | 3 | (0) | ||||||||
1989-1990 | スペイン U-20 | 5 | (0) | ||||||||
1990-1991 | スペイン U-21 | 2 | (0) | ||||||||
1991-1992 | スペイン U-23 | 6 | (0) | ||||||||
1991-1999[1] | スペイン | 36 | (0) | ||||||||
監督歴 | |||||||||||
2010-2011 | フィテッセ | ||||||||||
2014 | コルドバ | ||||||||||
2015 | マジョルカ | ||||||||||
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1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
敏捷で武骨なタックルが持ち味のディフェンダーであった[2]。地元FCバルセロナの下部組織出身で、1989-90シーズン後半戦にCDテネリフェにレンタル移籍し、19歳だった1990年にプリメーラ・ディビシオン(1部)デビューした。1990年夏にFCバルセロナのトップチームに戻ると、右サイドバックのレギュラーとなり、8シーズンの間クラブに在籍した。同じく下部組織出身で守備的なウイングを務めていたセルジ・バルフアンと連携し、リーグ戦205試合に出場した。ヨハン・クライフ監督が指揮したいわゆるエル・ドリーム・チームの重要なメンバーであり、5度のリーグ優勝、1度のUEFAチャンピオンズリーグ優勝、1度のUEFAカップウィナーズカップ優勝、2度のコパ・デル・レイ優勝、4度のスーペルコパ・デ・エスパーニャ優勝、2度のUEFAスーパーカップ優勝を果たした。1997年にルイ・ファン・ハール監督が就任するとオランダ人選手が大量に加入したため、1998年6月にギジェルモ・アモールとともにクラブを離れ、移籍金220万ポンドでイングランド・チェルシーFCに移籍した。
チェルシーFCではすぐにチーム内での立ち位置を確立し、1998-99シーズンにはクラブ初のUEFAチャンピオンズリーグ出場権獲得を助けた。1999-2000シーズンにはFAカップで決勝に進出し、自身は負傷のために決勝出場を逃したが、3シーズンぶりの優勝を果たした。また同シーズンのUEFAチャンピオンズリーグでは16試合中14試合に出場し、ヘルタ・ベルリン戦(2-0)ではチェルシーFC在籍期間中唯一の得点を挙げ[3]、準々決勝進出に貢献した。2000-01シーズンには、度重なる負傷[4] やジャンルカ・ヴィアリ監督のローテーションを重視する方針から出場機会が減少し、リーグ戦14試合の出場にとどまった。2001-02シーズンには再びFAカップで決勝に進出したが、今度は優勝を逃した。2001-02シーズンと2002-03シーズンには監督に良く思われず、さらに若いディフェンダーとの厳しい競争などがあり、2シーズンで計7試合しか出場できなかったため、2003年5月に契約満了によってクラブを離れ、33歳で現役引退を表明した。チェルシーFCでは公式戦通算113試合に出場した。
1991年9月4日、オビエドで行われたウルグアイとの親善試合(2-1)でスペイン代表デビューした[5]。スペイン代表はEURO1992の予選で敗退して本大会には出場できなかった。1992年のバルセロナオリンピックではレギュラーとして出場して金メダルを獲得した。1994 FIFAワールドカップにはレギュラーとして出場し、グループリーグのドイツ戦、ボリビア戦でそれぞれ1アシストを決め、決勝トーナメント進出に貢献した[5]。1998 FIFAワールドカップではグループリーグのナイジェリア戦(2-3)戦の1試合に出場した[5]。EURO1996とEURO2000は負傷で出場を逃した[6]。
現役引退後の数年間はいくつもの放送局でサッカー解説者を務めた。
2010年10月後半、エールディビジのSBVフィテッセの監督に就任し、アシスタントコーチにはアルベルト・カペーリャス(FCバルセロナの元ユースコーチ)、スタンリー・メンゾ(Stanley Menzo)(元オランダ代表GK)などを起用した[7]。15位でなんとかエールステ・ディヴィジ(2部)降格を回避したが、契約満了で監督を退き、後任のジョン・ファン・デン・ブロム監督にバトンタッチした[8]。
2014年2月17日にパブロ・ビジャから監督の座を受け継ぎコルドバCFの監督に就任[9]。就任当初13位だった順位を7位まで上昇させ、昇格プレーオフへ導いた。昇格プレーオフではUDラス・パルマスをアウェーゴール差で下し、42シーズンぶりのプリメーラ・ディビシオン昇格を決めた。
しかし、第8節の時点で唯一の未勝利で最下位となり、10月20日に解任された[10]。
2015年6月20日、セグンダ・ディビシオンに所属するRCDマジョルカの指揮官の座に就いた[11]。しかしクラブは降格圏に沈み、同年12月1日に解任が発表された[12]。
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