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日本の安土桃山時代~江戸時代初期の人物、関白豊臣秀次の娘 ウィキペディアから
お菊(おきく)は、安土桃山時代から江戸時代初期の女性。関白・豊臣秀次の処刑を免れた娘で、母は淡輪徹斎の養女の小督局[1]で後藤氏の出身。
文禄4年(1595年)8月2日、豊臣秀次の妻子、女房ら39人の眷族が処刑され、小督局も31歳で京都の三条河原で処刑された[2]。辞世の句は下記。
生れ来て また歸るこそ 道なれや 雪のゆきゝの いともかしこし[3]
生後まもない女児は、益田少将[4]と富田一白(左近将監)に救われて、密かに祖父の出身地である波有手村(ぼうでむら)の後藤六郎兵衛興義に預けられた。興義は、小督局の実父である後藤政義の嫡男で、小督局の兄、女児からは伯父にあたる[3]。この女児と同様に隆清院も処刑から逃れることができた。
女児は菊と名付けられ、20歳になると、紀伊国の代官である山口喜内の嫡男・兵内に嫁いだ[3]。
ところがまもなく、大坂夏の陣が起こった。山口家は豊臣方に味方するが、兵内は大坂城に入って(菊の)義理の伯父の淡輪重政と共に樫井の戦いで討ち死にし、舅の喜内は紀伊に留まって紀州一揆を起こしたが、浅野家に鎮圧されて失敗したので、一族は尽く刑死されることになった。淡輪家には紀伊藩士の者もあり、山口家に嫁いで数日であったため、菊のみが赦されることになったが、自ら共に処刑されることを望み、元和元年(1615年)6月6日に紀州南穂村の河原で刑死した[3]。
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