O・J・メイヨ
アメリカのバスケットボール選手 ウィキペディアから
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オヴィントン・ジャンソニー・メイヨ(Ovinton J'Anthony "O. J." Mayo, 1987年11月5日 - )はアメリカ合衆国出身のバスケットボール選手。NBAのメンフィス・グリズリーズなどに所属していた[1]。出生地はウェストバージニア州ハンティントン、出身大学は南カリフォルニア大学。日本ではO.J.メイヨー、あるいはO.J.マヨなどと表記することもある。
ダラス・マーベリックス時代のメイヨ | |
遼寧衡潤フライングレパーズ y y No.32 | |
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ポジション | SG/PG |
基本情報 | |
国籍 | アメリカ合衆国 |
生年月日 | 1987年11月5日(36歳) |
出身地 | ウェストバージニア州ハンティントン |
身長 | 193cm (6 ft 4 in) |
体重 | 95kg (209 lb) |
キャリア情報 | |
出身 | 南カリフォルニア大学 |
ドラフト | 2008年 1巡目 3位 MIN |
選手経歴 | |
2008-2012 2012-2013 2013-2016 2018 2018-2019 2019 2019-2020 2020-2021 2021-2022 2022 2023 |
メンフィス・グリズリーズ ダラス・マーベリックス ミルウォーキー・バックス アスレティコ・デ・サンジェルマン 達欣タイガース 湖南長沙勇勝 台北富邦ブレーブス 遼寧飛豹 ユニック・カザン ザマレクSC アル・ファティフSC |
受賞歴 | |
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Stats Basketball-Reference.com | |
O.J.メイヨは当時17歳だったアリーシャ・メイヨの長男として産まれた。アリーシャはその後も6人の子供を産み、またシングルマザーとなることを選択したため、メイヨの幼少時代は裕福とは程遠かった。しかしその後メイヨのバスケット選手としての才能が開花すると、一転して華々しい少年時代を過ごすこととなる。
彼が13歳の頃には地方新聞で『奇才』と紹介されるまでになり、メイヨが7年生(中学1年生)の時にはケンタッキー州の私立校、ローズヒル・クリスチャン高校で特待生としてプレイ。高校生に混じりながらも平均20.5得点を記録し、8年生の時には平均23.1得点を記録した。スポーツ・イラストレイテッドやCBSでもメイヨの事が報じられるようになり、メイヨは高校入学を待たずしてメディアから注目を集める存在となった。
高校はハンティントン高校に進学。2006年、18歳になったメイヨは2年連続でオハイオ州のミスター・バスケットボールとAP通信選出のデビジョンIII年間最優秀選手を獲得。チームも2年連続で州チャンピオンに導いた。益々名声を高めていくメイヨは、同じく高校生でスター選手になったレブロン・ジェームズとしばしば比較されるようになり、レブロンの高校時代と同様に彼の試合にも多くの観客が詰め掛けるようになり、その中にはレブロンやカーメロ・アンソニーらNBAスター選手の姿もあった。2006年2月にはこれまでで最多となる観客を動員し、16500人の観客の前で、メイヨとチームは当時全米ランキング1位のオークヒルアカデミー高校を降している。
最終学年となる2006-07シーズンには28.2得点6.1リバウンド7.2アシストを記録し、州の得点王に輝いた。またマクドナルドとAP通信選出のオールアメリカと、ウェストバージニア州年間最優秀選手に選ばれた。州チャンピオンシップ決勝では41得点10リバウンド11アシストのトリプル・ダブルを達成。3年連続の州チャンピオンに輝く直前、メイヨはフリースローラインからゴールのバックボードに向かってボールを投げ、空中でキャッチしてそのままダンクをするというワンマンアリウープを決めた。試合終了のブザーが鳴り響くと客席に向かってボールを投げ込み、3本指を立てて優勝を祝った。
高校バスケ界のスーパースターとなったメイヨの進路には多くの注目が集まり、各局がこぞってメイヨの進学先を予想したが、メイヨが決断したのは南カリフォルニア大学(USC)だった。
大学1年目となる2007-08シーズンには20.7得点4.5リバウンド3.3アシストを記録し、平均20.7得点、通算684得点、3Pシュート成功数88本は同校の1年生記録となった。またPac-10の1stチーム、オールフレッシュマンチーム、Pac-10オールトーナメントチームに選出されている。
大学では1年間だけプレイし、2008年のNBAドラフトにアーリーエントリーした。
ドラフトではミネソタ・ティンバーウルブズから全体3位指名を受けたが、直後に大型トレードに組み込まれたことで、メイヨのNBAのキャリアはメンフィス・グリズリーズで始まることとなった。
低迷中のグリズリーズでメイヨは1年目からその才能を発揮。全82試合に先発で出場し、殆どの試合で二桁得点をあげ、7試合目には早くも31得点をあげた。メイヨはシーズン終了まで勢いを失うことなく、得点ではルーキー中1位となる平均18.5得点をあげ、オールルーキー1stチームに選ばれた。
2012年7月19日、ダラス・マーベリックスと2年契約で合意したが、ヘッドコーチのリック・カーライルとソリが合わず、2012-13シーズン終了後に2年目の契約 (プレーヤーオプション) を破棄し、再びFAになった。
2013年7月13日、ミルウォーキー・バックスと3年契約を結んだ。
2018年4月4日、バロンセスト・スペリア・ナシオナルのアトレティコス・デ・サン・ヘルマンと契約したと報じられた[2]。2019年からは台湾や中国などでプレーしている。
メイヨは学生時代から幾つかのスキャンダルを起こしている。
少年時代からすでに「金のたまご」として注目を集めていたメイヨの周囲には、あらゆることをサポートする「チーム・メイヨ」と呼ばれる集団が居たとされており、メイヨが南カリフォルニア大学に進学した時、当時ロサンゼルスに住んでいた実父とはあまり接触させないようにさせていたという。
爆発力のあるスコアラーで、様々なディフェンスに対処できる狡猾なボールハンドラー。NBAのスリーポイントラインにもすぐに対応できる。ただし1歩目の踏み込みは弱く、ディフェンダーを振り切る能力はまだ乏しい。現役NBA選手ではベン・ゴードンに例えられる。
※スプリントはコート3/4(約21m)走。ベンチプレスは約84kg。
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