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II号戦車(にごうせんしゃ、Panzerkampfwagen II、パンツァーカンプ(フ)ヴァーゲン ツヴァイ、特殊車輌番号 Sd.Kfz.121)は、ナチス・ドイツで作られた軽戦車(10トン級)である。
ボービントン戦車博物館で撮影されたII号戦車F型 | |
性能諸元 | |
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全長 | 4.81 m |
全幅 | 2.22 m |
全高 | 1.99 m |
重量 | 8.9 t |
懸架方式 | リーフスプリング方式 |
速度 | 40 km/h |
行動距離 | 200 km |
主砲 | 55口径20 mm機関砲(2 cm KwK 30 L/55) |
副武装 | 7.92 mm機関銃 MG34 |
装甲 |
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エンジン |
マイバッハ HL62TR 直列6気筒液冷ガソリン 140 馬力 |
乗員 |
3 名 (車長兼砲手、操縦手、無線手兼装填手) |
a~c型、A~C型、F型に至る標準型と、砲塔は共通だが車体は全く別設計のD、E型、さらに(コンセプト上の)発展型で、これも別設計のG型以降の各タイプがある。
標準型II号戦車は、I号戦車ではできない砲を扱うための訓練および戦車生産技術の習得用に開発された軽戦車であり、MAN社およびダイムラー・ベンツ社、ヘンシェル社、ヴェクマン社、アルケット社、FAMO社、MIAG社によって生産された。主力戦車であるIII号、IV号の数が揃うまでの繋ぎとして、非力なI号に代わって、ある程度の実戦能力を付与されたものである。試作型は1935年に完成し、1936年から増加試作型が数十輌作られ、翌年からA型が本格的に量産に入った。本車もI号戦車同様に農業用トラクター(独:Landwirtschaftlicher Schlepper, 略号:La.S.) の名目で開発されている。
I号戦車の武装が7.92 mm機関銃 MG 13kであるのに対し、II号戦車は2 cm機関砲 KwK 30に強化されている。a、b型では小転輪を2輪ずつリーフ式サスペンションボギーで支え、さらにそのボギー軸をガーダービームで繋いだ形式であったが、c型では転輪一つごとに独立してリーフスプリング付きアームで支える形式となり、これが以降の型の標準となった。後にはこのシャーシを用いて様々な自走砲が造られた。
再軍備に向けた最初の量産型戦車として1934年に生産が開始されたI号戦車だったが、これは本格的戦車開発のための習作的意味合いが強く、訓練用として使うにも小型過ぎた。また、これに続くべき本格的戦車であるIII号戦車、IV号戦車は、なお開発に手間取ることが予測されたため、その間をつなぐ、I号戦車よりも若干大きく武装も強力な軽戦車の開発が計画された。
開発命令は、I号の生産が始まって間もなく、1934年7月にクルップ、MAN、ヘンシェルの3社に下されたが、その仕様は、戦闘重量は当初La.S.(I号戦車の開発名称)に出されたものの倍の10トン、武装は全周回転砲塔に2 cm機関砲と7.92 mm機銃を同軸に搭載するというものであった。主武装として選ばれたのは、この年に生産が開始された新鋭の2 cm Flak 30機関砲の車載型であった。
3社案の比較検討の結果、MAN社のものが採用され、La.S. 100(農業用トラクター100型)の秘匿名称のもとで、25輌の先行量産型の製作が命じられた。シャーシの生産と最終組立は開発会社のMANが行う一方、上部構造物はI号同様、ダイムラー・ベンツが担当した。
1935年10月に軟鋼製の試作車が完成、続いて当初発注分の25輌の a/1型、続いて同数の a/2型、50輌の a/3型が作られた。実用化を急いだ引き換えに、これら初期の型は、小刻みな改修を重ねながらの生産となった。1937年2月からは、装甲を強化したb型が25輌生産された。
続くc型(25輌生産)は、車体形状は以前の型を引き継いでいるものの、足回りが一新された。これは、ガーダービームを廃し、比較的大直径の転輪をそれぞれリーフスプリングで独立懸架するもので、これが以降の型の標準となった。a各型とb型にはマイバッハ HL57TR(130馬力)エンジンが搭載されていたが、c型では重量増に対応し、マイバッハ HL62TR(140馬力)に強化された。
このc型を経て、II号戦車はようやく本格的量産に入り、略同形のA、B、C型が、1937年7月から、1940年4月にかけて、計1088輌生産された。この生産途中である1938年10月25日、「II号戦車(2 cm)(特殊車両番号121)」(Panzerkampfwagen II(2 cm)(Sd.Kfz.121))の制式名称が与えられた。
乗員配置は、1名用砲塔に車長兼砲手、車体前部左側に操縦手、その後方に無線手兼装填手の、計3名である。無線手は床に座っており、その左側に無線機と2 cm機関砲の弾薬箱があった。無線機はFu.2受信機もしくはFu.5送受信機を装備。砲塔上面に車長用の、車体前部上面左側(操縦席手前)に操縦手用の、車体後部上面左側に無線手用の、乗降用ハッチがある。戦闘室左側後面にはバイザーがあり、無線手が後方を視察できた。エンジンは車台後部右側にある。エンジンから前方に延びたドライブシャフトと、ドライブシャフトと繋がっている車台前部の変速機も、車台右側にある。
II号戦車はまずスペイン内戦で、I号戦車とともにテスト運用された。本格的な主力戦車であるIII号戦車、IV号戦車の生産が間に合わず、第二次世界大戦開始時のポーランド侵攻から主力として実戦投入された。初期の電撃戦ではその軽快性と機動力が大いに発揮され[1]、その戦闘能力も当時においては有効だった。
電撃戦の生みの親とも云われているハインツ・グデーリアンは後に「まさかこれら訓練用戦車で大戦に突入するとは思ってもみなかった。」と語っているが、一方では榴弾も使用できる2 cm機関砲は歩兵の最大の敵である重機関銃手を攻撃するのに最適であり、被弾面積の小ささと単価の安さもあって参謀本部の中にはこの戦車を主力とするよう献言した者もいた。また主砲はもともと重対戦車ライフルから発展した高射機関砲であるために初速が高く、その徹甲弾は相手が軽装甲であれば十分な威力を発揮できた。しかし、対戦車攻撃力を重視するルートヴィヒ・ベックの反対もあり、結局当初の予定通りIII号戦車を主力とする方針が貫かれた。実際にポーランド戦後、III号、IV号の生産がある程度軌道に乗り始めると、II号戦車は偵察・連絡を主任務にするよう格下げされた。しかし、その後もしばらくは、数量的にはなおドイツ軍戦車部隊の主力車両であった。
また、b型以降若干強化されたとはいえ装甲はなお薄く、ポーランド戦では対戦車火器によって大きな損害を蒙り、うち少なくとも78両が修理不能の全損となった。そのため1940年5月以降、c、A~C型の車体前面、砲塔前面に15 mmまたは20 mmの増加装甲を取り付ける改修が行われた。また、フランス戦後の1940年10月には、砲塔上面の大きな角形ハッチに替えて、全周にペリスコープを備えたコマンダー・キューポラが導入され、その改修キットが配布された。
その後も、バルカン戦線、北アフリカ戦線、独ソ戦と、II号は既に非力となりながらも戦い続けた。1941年3月からは、標準型II号戦車の最終型となるF型の生産が開始された。F型はC型までと比べ、基本装甲が全体的に増厚されており、車体前端は平面の組み合わせとなり、戦闘室前面も車体幅一杯の一枚板となった。また、砲塔には最初からキューポラが装着されていた。本来はC型に引き続き生産されるべきものだったが、これら改設計に手間取ったため、生産開始までに約1年の遅れが生じることになった。この頃にはすでに戦車としての価値はほぼ失われつつあったが、一方で、ドイツは装甲師団の大幅な拡張を始めており、その充足用に生産されたのである。生産はFAMO社1社のみで行われ、1942年12月までに524輌が作られた。標準型II号戦車の生産はこれをもって終了したが、車台はその後も派生型である自走砲用に引き続き生産された。
1938年初め、兵器局は新編の軽師団向けに、偵察用高速戦車(Schnellkampfwagen)、秘匿名称La.S. 138(農業用トラクター138型)の開発をダイムラー・ベンツ社に命じた。これは従来騎兵部隊が担ってきた強行偵察・追撃の任にあたるための快速の軽戦車で、標準型のII号戦車の40 km/hの最高速度では不足と考えられたためである。
この新型軽戦車は、砲塔とエンジンは標準型II号戦車と共通だったが、車体は新設計で、そのレイアウトは、同じくダイムラー・ベンツが開発したIII号戦車に似ていた。足回りは大型の複列式転輪が片側4つで上部転輪はなく、ドイツ戦車としては初めてトーションバー・サスペンションとマイバッハ VG102128 プリセレクト式変速機を採用、F&S PF220K 乾式多板クラッチと組み合わせていた。車体前面装甲は同時期の標準型II号戦車より厚く、30 mmとなっていた。そのため車重も10 tと若干重かったが、高速走行に適した駆動系・足回りで、最高速度は55 km/hに達した。
生産はMAN社で行われ、1938年5月から1939年8月にかけ、全43輌が作られた。その後、この戦車には(標準型とは別設計であるにもかかわらず)、II号戦車D、E型(特殊車両番号121)(Panzerkampfwagen II Ausf. D, E (Sd.Kfz.121))の制式名称が与えられた。D型は一般的なシングルピン型乾式履帯を履いていたが、後期に生産されたE型はドイツのハーフトラック系列に似た形状の湿式履帯で(ただし試作車両を除き接地面にゴムパッドは付かない)、これに伴い起動輪、誘導輪の(資料により転輪も)形状が変化していた。D、E型は生産数も残された資料も少ないが、特に湿式履帯を持つE型の写真等は少ない。その後、火炎放射戦車、自走砲用に車台が追加生産されたが、これらはほぼD型仕様の足回りを持っていた。
高速の偵察用車両として開発されたD、E型だったが、確かに路上最高速度は標準型を上回ったものの、不整地走行性能が期待を裏切り、少数のみで生産は打ち切られた。生産車は一個大隊を充足する数で、計画通り軽師団に配属されて1939年のポーランド戦に投入されたが、1940年には部隊から引き上げられ、火炎放射戦車に改装された。
1939年9月15日、ドイツ陸軍兵器局は、30 mmの前部装甲(これは当時の主力中戦車であるIII号戦車E型やIV号戦車D型と同じ厚さである)、2 cmまたは3.7 cm主砲、最高速度50 km/hを備えた、高速・重装甲の偵察戦車の新しい仕様を発表した。これは元はドイツのMAN社に送られたが、1940年7月31日にシュコダ社とBMM(元ČKD)社にも送られ、三社の競作となった。MAN社の物が「II号偵察戦車L型」として採用され、シュコダ社の物が「シュコダ T-15、あるいは、II号偵察戦車シュコダ型」、BMM(元ČKD)社の物が「新型38(t)戦車」である。
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