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アーサー・エドウィン・ケネリー(Arthur Edwin Kennelly、1861年12月17日 - 1939年6月18日)は、アイルランド出身のアメリカ合衆国の電気工学者である。
アーサー・エドウィン・ケネリー Arthur Edwin Kennelly | |
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生誕 | 1861年12月17日 |
死没 | 1939年6月18日 (77歳没) |
居住 | アメリカ合衆国 |
国籍 |
アイルランド アメリカ合衆国 |
研究分野 | 電気工学 |
主な受賞歴 |
AIEEエジソンメダル(1933年) IRE栄誉賞(1932年) ハワード・N・ポッツ・メダル(1918年) エドワード・ロングストレス・メダル(1917年) |
プロジェクト:人物伝 |
ケネリーは1861年12月17日にインド・南ムンバイのコラバで、アイルランド人の海軍士官・デビッド・ジョセフ・ケネリーの子として生まれた。母のキャサリンは1863年、彼が3歳のときに亡くなった。同年、父が海軍士官を引退し、父とともにイギリスに戻った。彼はロンドンのユニバーシティカレッジスクールで教育を受けた。1878年に父はエレン・L・スペンサーと再婚し、シドニー=ルイブール石炭鉄道会社の経営権を引き継いで、カナダ自治領・ノバスコシア州シドニーに一家で転居した。
ケネリーは、1887年12月にトーマス・エジソンのウェストオレンジ研究所に加わり、1894年3月まで在籍した。当時は、エジソンの直流送電陣営とニコラ・テスラの交流送電陣営による電流戦争の最中であり、ケネリーは、ハロルド・P・ブラウンによる、電気椅子で使用する電気の種類を決定する際の、交流が直流よりも危険であることを示すデモの助手を務めた[1][2]。
その後、ケネリーはエドウィン・ヒューストンとともに電気工学のコンサルティング会社を設立した。彼らは共同で、Alternating Electric Currents(交流電流、1896年)、Electrical Engineering leaflets(電気工学のリーフレット、1896年)、Electric arc lighting(電気アーク照明、1902年)を執筆した。
1893年、彼はアメリカ電気学会(AIEE)でインピーダンスに関する論文を発表した。彼は、交流回路理論にオームの法則を適用する際の複素数の使用を研究した。 1902年、彼は電離層の電波スペクトルの電気的特性を調査し、それにより、ケネリー・ヘビサイド層(E層)の概念が生まれた。また、1902年にケネリーは、ベラクルス-フロンテラ-カンペチェのルートで海底ケーブルを敷設するメキシコの遠征隊の技術担当者となり、また、ケーブルの製造中にメキシコ政府の検査官を務めた。彼は1902年から1930年までハーバード大学の電気工学の教授であり、1913年から1924年まではマサチューセッツ工科大学の教授を兼務した。彼が博士論文の指導を行った学生の一人にヴァネヴァー・ブッシュがいる。
1911年にロンドン大学で双曲角と双曲線関数の理論を授業し、翌年、その内容を出版したことで、応用数学を進歩させた。
彼は、メートル法推進協会、照明工学会、国際電気標準会議米国委員会などの専門組織に積極的に参加した。1898年から1900年までAIEEの、1916年に無線学会(IRE)の会長をそれぞれ務めた[3]。1924年にトロントで開かれた国際数学者会議(ICM)の招待講演者となった[4]。
エドウィン・ヒューストンとの共著についてはエドウィン・ヒューストンを参照。
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