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黄門侍郎(こうもんじろう)は、中国の官職名の一つ。時代によっては、給事黄門侍郎(きゅうじこうもんじろう)とも呼ばれた。略して黄門(こうもん)ということもある。後代には、門下侍郎(もんかじろう)となった。
秦において、皇帝の勅命を伝達する官職として創始され、漢以降の歴代王朝にも受け継がれた。秦や漢では、禁中の門(禁門)が黄色に塗られていて「黄門」と呼ばれていたため、皇帝に近侍するこの官職(郎官)は「黄門侍郎」と称されるようになった。後漢では「給事黄門侍郎」と改称した官職が置かれ、魏・晋に受け継がれた。その指揮下には宦官の小黄門などがあった。蜀漢では諸葛亮とともに「四相」と呼ばれた董允がこの地位に就き、出師表に信頼すべき人物として『侍郎の董允』の名が挙げられている。
隋・唐のときに、詔勅を審議する門下省所属の副長官とされた。唐の6代皇帝玄宗治下の天宝元年(742年)には「門下侍郎」と改称された。
北宋の6代皇帝神宗は、唐末から形骸化していた官制を改革する「元豊の改革」を元豊3年(1080年)から断行し、尚書左僕射(尚書省の副長官)に門下侍郎を兼任させて宰相の職務を遂行させた。
北宋の8代皇帝徽宗の政和年間に、左僕射は太宰兼門下侍郎と改められた。靖康年間に、尚書左僕射兼門下侍郎に戻された。南宋の建炎年間には、宰相は尚書左右僕射同中書門下平章事となったが、乾道年間にまた左丞相となった。
日本の官職を唐名で呼ぶようになったとき、中納言は中国のこの官職に相当すると見なされて「黄門侍郎」、後には略して「黄門」と呼ばれるようになった。例えば、水戸の中納言(徳川光圀)は「水戸黄門」という具合である。
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