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日本の俳優、歌手 (1911-1998) ウィキペディアから
高田 浩吉(たかだ こうきち、1911年11月7日 - 1998年5月19日)は、日本の俳優、歌手である。本名:梶浦 武一(かじうら たけいち)。戦前の松竹を代表する時代劇スターであり、『歌う映画スター』第1号として知られる。次女は女優の高田美和(美和の元夫は歌舞伎俳優の2代目片岡秀太郎)、孫は同じく俳優の大浦龍宇一である。また元フジテレビアナウンサーの寺田理恵子は孫・大浦龍宇一の義母である(寺田の娘が大浦と結婚したため)。
たかだ こうきち 高田 浩吉 | |||||
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本名 | 梶浦 武一(かじうら たけいち) | ||||
生年月日 | 1911年11月7日 | ||||
没年月日 | 1998年5月19日(86歳没) | ||||
出生地 | 日本 兵庫県川辺郡園田村(現在の同県尼崎市東園田町) | ||||
死没地 | 日本 京都府京都市北区 | ||||
職業 | 俳優、歌手 | ||||
ジャンル | 演劇、歌謡、劇映画(時代劇・現代劇、剣戟映画、サイレント映画・トーキー)、テレビドラマ | ||||
活動期間 | 1926年 - 1980年代 | ||||
配偶者 | あり | ||||
著名な家族 |
高田夕紀夫(息子) 高田美和(次女) 高田瞳(三女) 大浦龍宇一(孫) | ||||
主な作品 | |||||
映画 『仇討破れ袴』 『大江戸出世小唄』 『春琴抄 お琴と佐助』 『伝七捕物帖』シリーズ 『残菊物語』(1939年) 楽曲 『浅太郎赤城の唄』 『大江戸出世小唄』 | |||||
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1911年(明治44年)11月7日、兵庫県川辺郡園田村(現在の同県尼崎市東園田町)に生まれる。
1926年(大正15年)、大阪商業学校を中退して松竹京都撮影所に入社。長谷川一夫、坂東好太郎とともに「松竹下加茂三羽烏」と呼ばれる。まもなくトーキー映画時代に入ると、生来の関西弁を標準語に変えるため、撮影所の江戸小唄研究会というサークルに参加。小唄のレッスンで鍛え上げたその美声を映画監督の大曾根辰夫に買われて、1935年(昭和10年)に『大江戸出世小唄』でポリドール・レコードから歌手デビュー。大曾根監督の同名の映画の中でこの歌を歌ったことから「歌う映画スター」第1号として映画、主題歌ともに評判になった。なお、本作は当時封切られたばかりのルネ・クレールのフランス映画『巴里の屋根の下』で映画も主題歌もそれぞれ大ヒットしたことにヒントを得た大曾根監督が、日本初のミュージカル映画として製作したといわれる。
『大江戸出世小唄』の大ヒットの以降、1936年(昭和11年)に『江戸節めおと姿』などをふきこむが、日中事変を契機にレコード業界は戦時歌謡全盛時代に入り高田もやがてレコードからは距離を置き、自身は戦地に召集され4年間の軍隊生活を経て除隊されるが、戦争の激化により映画製作が激減したことから高田浩吉劇団を旗揚げし、戦後まで地方巡業を行った。当時、弟子の1人には戦後の歌う映画スター鶴田浩二がいた。
高田が映画スターとして再び活躍するのは、1951年(昭和26年)に当時人気急上昇中の美空ひばりが主演を務めた斎藤寅次郎監督映画『とんぼ返り道中』で復帰してからである。当初はひばり相手の脇役としての出演だったが、高田の全盛期を知らない若いひばりファンたちの人気に火がつき、「平凡」の編集部宛に「ひばりちゃんと共演した新人の高田浩吉の写真が欲しい。ぜひ誌上で紹介して下さい」という投書が殺到したという。
その反響の大きさを雑誌「平凡」の編集長から聞いた日本コロムビアの伊藤正憲文芸部長は、高田と専属歌手の契約を結び、1953年(昭和28年)、『伊豆の佐太郎』でレコード界に再び登場。題名の佐太郎は実在の人物ではなく、作詞の西條八十の家に出入りしていた伊豆出身の佐太郎という植木職人の名前からつけたという。また、映画においても1954年(昭和29年)に始まった『伝七捕物帖』シリーズで松竹随一の時代劇スターとして再び人気を博し、このころすでに44歳だったため、「奇跡のカムバック」とさえ言われた。さらに、歌手としてNHK紅白歌合戦に2回連続出場している(詳細は下記参照)。
1960年(昭和35年)、松竹を退社して第二東映(後のニュー東映、1961年消滅)に移籍。ここでも主演スターとして活躍したが、あまりのハードスケジュールのため作品の質が低下し、次第に人気にも陰りがみえた。また、時代劇映画が斜陽となり、同社が鶴田浩二、高倉健らの仁侠映画を中心に変わったことから、1964年(昭和39年)より活動の中心をテレビ・舞台に移した。昭和40年代の懐メロブームの際には『なつかしの歌声』(東京12チャンネル、現在のテレビ東京)などの番組に常連出演。その美声を披露した。
「娯楽映画のスターは、常に最も美しく、颯爽としていなければならない。そのためには、コンディションを維持し、私生活でも好き勝手は許されない」という言葉どおり、酒も煙草もたしなまず、芝居と歌一筋に生きた。映画時代には「美貌タイム」を唱え、目が充血しないように午後八時以降は一切仕事をしなかったことで知られる。二枚目の容貌を保つため睡眠をたっぷりとることを自らに課していた。しかし、1968年(昭和43年)に放映された『伝七捕物帳』では徹夜の仕事を強いられることになってしまった。また、京都をこよなく愛し、亡くなるまで京都で暮らしていた。そのためか、めったなことがないかぎり東京で仕事はしていなかった。その一方で、1980年代には愛娘・高田美和の離婚・熱愛騒動や、マネージメント会社を通じて原野商法会社の宣伝用映画出演の依頼を受け、推薦文の製作や原野商法会社主催のディナーショーへの出演などの際、依頼をした会社が詐欺行為を行っていることの確認を怠ったとして起訴され話題を呼んだ。
1988年(昭和63年)には京都市文化功労者を表彰され、1990年(平成2年)には勲四等瑞宝章を受章した。
1998年(平成10年)5月19日、肺炎のため京都府京都市北区の病院で死去。享年87歳、満86歳没。墓所は尼崎市椎堂墓地。
他
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