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東京府豊多摩郡井荻町(現・杉並区)に生まれる。父は東京商科大学(現・一橋大学)教授・文部大臣・郵政大臣などを歴任した高瀬荘太郎、母方の祖父は台湾銀行副頭取・東洋海上保険(現・日新火災海上保険)社長などを歴任した下坂藤太郎。
1942年に暁星中学校に入学し、戦時中は父の郷里である静岡県富士宮市に疎開して富士宮農学校(現・静岡県立富岳館高等学校)に転校した。1946年に歌誌「をだまき」に入会し、中河幹子(小説家・中河与一の妻)に師事。1951年、蒔田さくら子とともに歌誌「短歌人」に入会し小宮良太郎に師事。1953年、「短歌人」編集委員就任。参議院議員を務めていた父の秘書を経験する。1956年、作品活動が活発かつ功労のあった同人に贈られる斎藤瀏賞を受賞。
1959年に東京経済大学を卒業。中外製薬広告課に入社し、25年にわたってCMなどの制作に携わった。手がけたCMには「ガンバラナクッチャ」「ちかれたびい」で知られる新グロモントや「おじゃま虫」のバルサンなどがある。
1966年、「短歌人」編集・発行人に就任。1973年、歌人の三井ゆきと結婚。
10代から作歌を始めているが、第一歌集『喝采』を出したのは遅く、1982年、53歳の時のことである。同作で第8回短歌公論処女歌集賞を受賞。1985年に中外製薬を退社、「短歌人」編集発行人も退く。同年、石黒清介の誘いにより、『短歌現代』(短歌新聞社)編集長に就任。1989年、現代歌人協会理事・広報委員長。1994年、現代歌人協会常任理事。
作風としては、散文的で実験性の強い口語短歌である。意図的に音数を減らした文体に特徴があり、とりわけ三句目の五音が脱落していることが多い[1]。その一方で、特に初心者に対しては、定型の遵守を強く指導していたという。
後進育成にも熱心で、「短歌人」から小池光、永井陽子、藤原龍一郎、武下奈々子、辰巳泰子、松木秀、天野慶など多くの歌人を送り出した。その功績を称え、2002年より「短歌人」内の公募新人賞である「短歌人新人賞」が、「高瀬賞」と改称される[2]。
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