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高橋 興光(たかはし おきみつ)は、戦国時代の武将。安芸国・石見国国人である石見高橋氏の当主。高橋久光の次男である高橋弘厚の子とされるが、高橋氏の系図については異説も多く、以下の記述も確定的なものではない。
文亀3年(1503年)、高橋弘厚の子として生まれたとされる。
永正12年(1515年)、高橋氏の当主であった伯父・高橋元光の戦死により、祖父・久光の後見を受けて家督を相続する。父に倣い、大内義興から偏諱を貰って興光と名乗ったが、これは安芸国人一揆の結束を弱め、大内氏による安芸への影響力が再び強まる一因となった。
近隣の国人である毛利氏の当主・毛利興元に叔母(伯母)が嫁いで嫡男の毛利幸松丸が生まれており、毛利氏とは友好関係にあった。永正13年(1516年)に毛利興元が死去し、幸松丸の家督相続を機に外戚として毛利氏に干渉したが、幸松丸の外祖父として権力を振るった久光は永正18年(1521年)に戦死した。
毛利幸松丸を後見し、大永3年(1523年)7月15日の幸松丸死去によって毛利氏の家督を相続した毛利元就は、次第に高橋氏と敵対するようになり、享禄元年(1528年)12月21日、父・弘厚[1]が在城した安芸国高宮郡の松尾城が大内方の毛利元就、和智豊郷、弘中隆包の軍に攻撃され、翌享禄2年(1529年)5月2日に落城した。
興光は石見国邑智郡阿須那の藤根城に籠城し、尼子経久の三男である塩冶興久に援兵を要請したが、毛利元就は興光の叔父[2]である高橋盛光をそそのかして興光を自刃に追い込み、それに乗じて高橋氏の領地を併呑した。これにより石見高橋氏は滅亡した。なお、盛光も主君殺しを理由に直後に元就に殺害されている。
なお、元光や久光の戦死についても、興光の最期と類似したエピソードが伝わっており、どこかで伝承に混乱があったと推察される。ちなみに、同じく元就に滅ぼされた本城常光は高橋氏の一族だという。
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