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武蔵野台地の東部にある本郷台地の一部を含む。駒込のうち、文京区側を「本郷の駒込」の意味で本駒込とも称する。古くから農村開発がなされていたが、江戸時代に入ると江戸城に近い立地から徐々に町場を形成するようになる。寺院や武家屋敷も設けられ、大名庭園の六義園は柳沢吉保の下屋敷に由来する。近代以降は鉄道が通り宅地化が進み、2022年現在も主に中低層の住宅街が広がっている。
駒込の地名の由来にはいくつかの説があるが、どれも定かではない。
当地では縄文時代・弥生時代の遺跡が多数発掘されており、古くから生活の営みがあったことが確認されている。地名としての駒込が確認できるのは、戦国時代に作成された『小田原衆所領役帳』が最も古いとされる。
江戸時代には豊島郡岩淵領にあり駒込村と称していたが、文政13年(1830年)『新編武蔵風土記稿』では上駒込村と下駒込村に分けて記載されている[1][2][注釈 1]。農村部は幕府領、麟祥院領、伝通院領に分かれる。江戸城に近く、日光御成街道が開かれるなど交通の便も良かったことから町場を形成するようになる。
明治期以降は市街地化・近代化が進む。明治元年に豊島郡は東京府に所属、明治11年に豊島郡が南北に分かれ、駒込の大部分は北豊島郡に所属となる。上駒込村域は明治22年に北豊島郡巣鴨町の大字上駒込になる。下駒込村域は明治22年に大部分が本郷区に所属、一部は下谷区の谷中初音町に合併。明治24年、本郷区下駒込は本郷区内の駒込各町に分裂する。明治43年には山手線の駒込駅が開業した。昭和7年の東京市編入により、巣鴨町上駒込は豊島区駒込となる。昭和22年、本郷区は小石川区と合併して文京区となる。昭和40年前後に住居表示の実施により、文京区内の駒込各町は本駒込・千駄木・向丘・西片などに再編された。
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