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将棋で持ち駒を置く台 ウィキペディアから
将棋の取った駒を使えるルールから持ち駒も立派な「情報」であり、持ち駒を駒台に置き、公開しなければならない(手に握る、覆い隠すなどの行為は「隠し駒」と呼ばれ、反則である)。
駒台は二つで一組とし、将棋盤の右側に置くのがマナーとされているが、過去には左に置かれた例もあり日露戦争で右手を負傷した大崎熊雄は左に置いていた[1]。
駒台の材質は、将棋盤と同じものは好ましくなく、盤より少し暗い色のものがよい。材質は杢が美しい銘木が使用されたものが高価である。駒箱も駒台と同じ材を使用する場合もある。
駒台の高さは、盤より少し低いものを使うのが一般的である。駒台の天面のサイズは、十数枚程度の駒を乗せられるようなものが一般的である。将棋の持ち駒の枚数は理論上は38枚までありうるが、プロの実戦で持ち駒が20枚以上になるようなことはほとんどない。
厚い盤には足が付く物がほとんどで、一本または四本足がある。また、卓上で使う足のない盤にはそれに見合ったものを使う。
「〜が駒台に乗っている」で〜を持ち駒として持っているという意味になる。
駒台の使用は割と新しく、江戸時代には存在せず、明治の末期頃に発明された。駒台の発明以前の時代には、対局の際には駒箱や懐紙を盤側に置き、それを駒置きにしていたという。
十三世名人関根金次郎は駒台の発明者に関する随筆を著している。駒台の発案者の飯塚力造は品川で貸座敷(女郎屋)を営んでいた愛棋家で、関根とともに京橋に帝国将棋所を作り、そのスポンサーとなったという。
京橋の新富町(しんとみちやう)に、小松将棋所といふのがあつた。こゝの主人は小松三香(さんきやう)と云ひ、将棋は四段であつたが、ある日、わたしがたづねて行くと、「ちやうどいゝところへきた。──品川に川島楼という貸座敷があるが、その飯塚といふ主人が将棋が好きで、そこへ行くと飲ましてくれるし、また褒美にありつけるかも知れぬ。もし、暇だつたら行つてみたらよからう。」といふ。
— 団鬼六編、『日本の名随筆 別巻8 将棋』
(中略)
ところで、現在つかはれてゐるやうな将棋の駒台を発明したのは、実はこの飯塚さんであつた。飯塚さんが駒台を発案するまでは、高段者は半紙を四つに折つてその上に駒を置いてゐたものなのである。ところが、最初飯塚さんはお雛様にいろんなお供へものをするあの飾台(かざりだい)からヒントを得て、さういふものがあつたならば、手でとるのにも便利だし、眼で見るのにもハツキリするといふところから、工夫に工夫をこらして、現在用ひ(ママ)られてゐるやうな形式にまで発展させ完成させたのであつた。
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